年別アーカイブ: 2018
小説『昭和40年男』の連載スタート
[サロン]
佐川光晴さん(作家、S58入寮)から、以下のような連絡がありましたので
お知らせします。
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みなさま へ
来週10月1日(月)から日刊ゲンダイで『昭和40年男』という小説を連載します。
それについてのPR動画が今日(9月28日)から公開されています。
「日刊ゲンダイ youtube 佐川光晴」
で検索してみてください。
佐川光晴
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(追記)
「日刊ゲンダイ youtube 佐川光晴」は、以下のとおりです。
以上
加藤忠一さんの自作絵画の公開について(最終第7弾)
[サロン]
【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。
この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。
※ホームページにも掲載します。
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29バイト:
毎朝事務室から放送がある。バイトの募集だ。「草むしり600円、二人」それを聞いて、希望する寮生が集まり、抽選で決定する。もちろん、学校は休むのだ。筆者も、絵にあるようないろんなバイトをやった。肉体労働ものはきつかった。
30寮歌・「都ぞ弥生」歌碑:
筆者が入寮する前の昭和32年に、歌碑ができた。寮の横、原始林の入口にある。「都ぞ弥生」は明治45年の寮歌であるが、以後も毎年一曲作られてきている。応援団に指導されて事ある度に歌わされるので、今でも20曲は空で歌える。
31スペシャルエッセン:
夜11時過ぎ、寮内に鐘が鳴りわたる。スペシャルエッセンだ。都合で夕食を食べることができなかった者の分を、希望者に与えるのだ。腹を空かした寮生が、それっとばかり食堂へ走る。冷え切ったご飯に熱湯をかけて、温めてから食べた。
32スキー・スケート:
体育単位取得のためには、水泳の他にスキーかスケートのどちらかの検定合格も必要だった。筆者はスキーで受けた。スキーの話では、初雪の日藻岩山に部屋の連中と行ったら、翌日の道新に掲載されて、皆全く驚いたことを思い出す。
33風呂場:
風呂場は、一番奥にあった。だから新寮のはずれの部屋などは、寒い冬など最悪だった。300人もいたのに、風呂場が混雑して困るなどということはなかった。寮生の行動時間が違っていたからなのかどうか、分からない。
34夜食・ラーメン屋:
とにかく若いから、夜の寮食だけでは腹が空いた。スペシャルエッセンにありつく他に、ゲルがある時は、夜食を食べに行った。病院前通りに寮生馴染みのラーメン屋があった。スペシャルエッセンとは比べ物にならないくらい美味かった。
35図書室:
飲んで、歌って、踊るような生活ばかりやっていたように思われるだろうから、最後は格調の高い話題で締めたいと思う。寮には、図書室があった。ここには夜遅くまで勉強する連中がいた。だが筆者は、もちろん(?)行ったことはない。
以上
加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第6弾)
[サロン]
【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。
この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。
※ホームページにも掲載します。
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24部屋ストーム:
寮では、毎晩どこかのサークルがストームをかけてきた。各部屋を廻って、強引に酒を飲ませ、スキー板を片手に踊りまくる。軟弱だと思われていた我がサークルも、その風評を吹き飛ばすため一度実行した。完全に疲れ果てたものだ。
25寮の自治:
寮は寮生の完全自治で運営されていた。そのため、四半期任期の執行役員が選挙で選ばれて、彼らを中心に運営された。選挙は、応援団系と学生運動系の二派で行われ、激しいものだった。これは代議委員会。こちらは大議論はなかった。
26合同発表会:
寮には三つの芸術サークルがあった。このサークルで合同発表会をやっていた。五月と秋の寮祭の時の2回、クラーク会館で行われた。観客の入りは多くなかったが、結構楽しかった。
27ハイキング:
我がサークルの強みは、女性がいることである。30人ばかりの団員の親睦を図るため、春秋2回ハイキングを行っていた。この絵は、空沼小屋一泊ハイキングのもの。小屋は小さく、我が団員で貸し切り状態だった。
28放牛:
寮のすぐそばに第二農場牧舎があった。ここには多くの牛が飼われていた。牧舎周りで放牧されているのだが、どういうわけか寮の周りまで出て来ているときがあった。大都会の大学としては全く異例な、牧歌的雰囲気の大学だった。
以上
加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第5弾)
[サロン]
【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。
この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。
※ホームページにも掲載します。
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19ポプラ並木:
超有名なポプラ並木が途切れた辺りから、さらにはるか向こうに寮が望めた。寮の裏手は原始林だったので、建物はわずかしか見えなかった。この辺りに立つと、広々とした如何にも北海道という感じがした。ポプラも爽やかな木だった。
20寮祭・ファイアストーム:
9月は寮祭。寮をあげての祭りだ。いろんな行事がある。しかし、何と言っても最大の興奮をもたらすのが、ファイアストームだ。全寮生が肩を組み、飲んで、歌って、踊りまくる。もちろん、歌は寮歌、踊りはストーム踊りだけだ。
21寮祭・仮装行列:
もう一つは仮装行列。時の話題を大テーマにして、4つの寮毎に小テーマを仮装で表現した。この年は、「カッパ社会の倍増」がテーマ。お金をかけない手造り仮装なので、お世辞にも綺麗とは言えない。むしろ汚いといった感じだった。
22寮祭・駅前ストーム:
入学のため裏日本の田舎町から初めて札幌駅に着いたとき、広い駅前通りを見て、清々しさを感じた。その駅前で、我が物顔で踊り狂ったのが、駅前ストームである。ストームの歌の替え歌もあった。♪早くなりたや札幌の~農学士~。
23水産生追いコン:
水産学部は函館にあったので、水産学部生は9月末には寮を出なくてはならない。そこで、追い出しコンパが行われていた。食堂でのささやかな料理と酒でのコンパだ。「水産放浪歌」を歌い、「別離の歌」を歌うと、本当に寂しくなった。
以上
加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第4弾)
[サロン]
【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。
この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。
※ホームページにも掲載します。
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14初夏:
観桜会が済むと、北の街の一番素敵な季節が始まる。初夏だ。寮の周りは、原生林(原始林)。木々が一斉に芽を出し、若葉を伸ばしていく。その内、郭公が鳴き出す「カッコー、カッコー」。もう授業なんぞ行きたくなくなる季節でもある。
15小樽商大戦:
隣の都市小樽にある旧小樽高商と北大予科との野球試合が、昭和初期から続いていた。時は6月。応援の主体は恵迪寮生。小樽まで行き、球場まで寮歌を歌いながら行列行進する。♪瓔珞みがく~石狩の~源遠く~訪いくれば~。
16中庭:
寮は4棟構成なので、周りの原始林が見えない棟がある。その代わりに中庭があり、癒しの空間だった。お茶目な先輩が、ある休日、庭木に登った。部屋の仲間がこれを見て、やんやの喝采。天気は良し、のんびりした休日だ。
17プール開き・水球:
寮の裏手にプールがあった。毎年7 月になると、プール開きが行われた。4つの寮の対抗戦として、いろんな種目が競われた。その一つに水球があった。といっても足が着く深さだったので、泳ぐより走る水球だったから猛烈に疲れた。
18水泳検定:
体育の単位を貰うには、水泳検定に受かる必要があった。屋外プールでやるのだが、水は緑色に濁り、目を開けられない。水泳は得意なのだが、大きく曲がってしまった。北海道出身者には泳げない者もいて、友人の代役も請け負った。
以上
加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第3弾)
[サロン]
【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。
この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。
※ホームページにも掲載します。
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9議論:
部屋ではよく議論した。テーブルに陣取り、安いトリスを飲みながら夜を徹して行っていた。たいした話ではないのだが、議論の種は尽きなかった。筆者は浪人入学者だが、現役で入った同い歳の先輩がなかなかの論客で、何時も最後は説得されていた。
10部屋コン:
部屋でのコンパもよくやった。一つのベッドの布団を片付ければ、たちまちそこが会場。安い合成酒やトリスをがぶ飲みして、談論風発、爆笑連発。疲れ果てれば、一人一人とベッドに倒れ込む。翌日の授業など、全く念頭になかった。
11観桜会:
寮にはいろんな行事があった。春先の大事な行事は観桜会。桜は5月の連休に入ってから開花する。寮から応援団を先頭にして、列を連ねて街を練り歩き、円山公園を目指す。もちろん、寮歌放吟しながらだ。一体感醸成の大事な行事だ。
12観桜会・四丁目ストーム:
観桜会では2回ストームをやる。札幌駅前と四丁目交差点である。♪醒~めよ~迷いの~ゆ~め醒めよ~。♪札幌の~農学校~蝦夷が島~。肩を組んでのぐるぐる回り。電車も車も停めたから迷惑なことだが、市民の目は暖かった。
13観桜会・円山公園:
公園に着くと、本番の大宴会が始まる。勝手に円陣を組んで、酒を交わす。円陣の中心には高台が設けられ、サークルや友人数人ずつが登り、好きな寮歌を放吟する。周りで肩を組んで踊り出す者も出る。肝心の桜はもうお構いなしだ。
以上
加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第2弾)
[サロン]
【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。
この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。
※ホームページにも掲載します。
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【今回は、第2弾です。】
4部屋:
部屋では、ベッドと机が一人の空間。洗濯物や着る物は、ベッドの上に紐を通し、ぶら下げた。寒い北の街だが、スチームが通っていたので暖かかった。明け方スチームが通り始める時のカチン、カチンという音が懐かしい。
5落書き:
部屋には壁一面に落書きがあった。壁ばかりか天井にもあった。部屋の先住者、つまり先輩達が書き残したものである。落書きは、つぶやきから哲学的なものまで様々だったが、卑猥なものは皆無だった。寮生の誇りがあったのだろう。
6エッセン:
寮用語は、何故かドイツ語だった。だから食事はエッセン、おかずはネーベンだった。エッセンは食堂で採る。テーブルに4人揃ったら食事開始。当時鯨肉がよく出たので、寮生は「げいてき寮」と自虐気味に言っていた。
7ブキ:
寮生は皆ブキを持っていた。と言うと、如何にも物騒な話だが、ブキとはフォークである。エッセンの時、箸ではなくフォークを使ったのだ。一本で、切る、突く、掬うことができる便利なものだった。
8部屋割りサークル:
同好の士が5人集まれば、サークルとして一部屋貰えた。筆者は、ユーゲントコールに入った。近くの看護学校寮生と混成合唱をするサークルだったから、寮内では軟弱派だった。他には硬派として応援団、空手、柔道等があり、学生運動派のサークルもあった。
以上
士幌小屋チセ・フレップ40周年記念バスツアー 開催報告
[事務局からのお知らせ]
恵迪寮生たちが北海道十勝の士幌町に建てた研修施設「士幌小屋チセ・フレップ」の設立40周年記念式典が、9月16日に士幌町で開催されました。
記念式典にあわせて、恵迪寮同窓会でバスツアーを開催したので報告します。
バスツアーには、OBが25名、学生が18名、合計43名が参加しました。
9月16日の朝、貸切バス1台で札幌駅北口を出発し、途中、恵迪寮と新千歳空港に立ち寄り参加者が全員そろい、士幌小屋へ向かいました。
バスの中では、DVD「清き國ぞとあこがれぬ」を鑑賞し、寮歌「都ぞ弥生」(M45年)、「草は萠え出で」(S53年第70回記念祭歌)を歌いました。また、小屋設立に関わった方から、当時の話を紹介してもらいました。
高速道路がつながったので、当時と比べると移動時間が大幅に短縮し、便利になりました。
お礼
多くの方にバスツアーに参加いただきました。ありがとうございました。
OBの方々から、士幌小屋設立当時の貴重なお話しを聞くことができました。
現在、寮生の活動として、新歓士幌ツアー、サマーキャンプ、学習サポート塾などが行われており、小屋が有効に活用され、町民と寮生との交流が図られております。
士幌小屋は、恵迪寮にとって貴重な財産であることを実感することができました。
40年の歴史の中で、士幌小屋に関わった寮生、OB、OG、町民の皆様に感謝したいと思います。
50周年に向けて、士幌小屋を拠点にした活動が活発に行われることを期待します。
OB、OGの皆様も機会があれば、ぜひ士幌小屋に足を運んでいただきたいと思います。
ありがとうございました。
一般社団法人 恵迪寮同窓会 士幌バスツアー実行委員会代表 佐野将義(H2)
以上
加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第1弾)
[サロン]
【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。
この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。
なお、加藤さんはお酒もこよなく愛されているようで、東京都内にある多くの居酒屋の絵もほのぼのとお描きになっています。
(追)折角の機会でもあり、ホームページ(サロン)にも掲載させていただきます。
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0表紙:
『絵で見る青春の恵迪生活―昭和三六~三八年の北大・恵迪寮―』のご紹介
上記の本を、昨年アマゾンkindleで出版しました(定価100円)。
電子ブックに不慣れな方もおられるかと思い、許されれば本の内容を同窓会のFacebookページで公開させて頂こうと思います(文章は簡略化)。
00冬の恵迪寮玄関:
当時の教養部の教室(クラーク会館の近く)は寮からかなり遠かった。冬には雪が積もり、寒いので、授業に出るのは大変だったが、寮の外観は趣が出た。
1恵迪寮とは:
「恵迪」とは、書經にある「迪に恵えば吉し(みちにしたがえばよし)」から取ったものである。この言葉を、寮の一期生佐藤昌介(後の総長)が揮毫した額が、食堂に懸っていた。
2寮の構造:
寮は2階建て、4棟構成だった。寮生が5人ずつ居住した部屋が60あった。部屋には洗面台はあったが、トイレはなく共用だった。部屋割りは半期毎に変更された。
3入寮詮衡会:
寮の運営は自治会に任されていたので、入寮詮衡も自治会が行った。詮衡基準は経済的困窮度が第一だが、その他は明らかにはされていなかった。筆者は、先輩牟田悌三(昭和20年入寮、俳優)が寮を訪問するテレビを見て、寮生活にあこがれるようになったことをアッピールした。
以上
平成30年9月23日現在の旧恵迪寮舎の状況
[サロン]
9月初旬の台風及び胆振東部地震による開拓の村の被災状況が報道されてくるにつれ、旧恵迪寮舎の状況が気になり、晴天も手伝い、開拓の村に確認に行ってきた。
ただし、わが目視による概況の把握であり、専門的な視点ではない。
(1)開拓の歴史村・食堂から旧恵迪寮舎へ向かう道路の右側の林(旧恵迪寮舎側)では、多くの樹木が強風により倒されている(写真①、②)。
(2)寮舎玄関へむかう食堂側の小道は倒木により閉鎖状態(写真③)。
(3)正面、玄関前の小道を風倒木の大きな根株を横目に通り、寮舎の雄姿をまず確認し安堵する(写真④、⑤、⑥)。
(4)寮舎への倒木の寄りかかり・影響はなし。寮舎中庭側のポプラは小枝を多少落とした程度で雄々しく聳ゆる。記念植樹・エルムも無事(写真⑦)。
(5)屋根の瓦も整然と列をなし輝き、落下、吹き飛びの形跡なし(写真⑧、⑨)。
寮舎を囲む林、特に道路側の林により強風を遮られ、幸い被災を受けなかったか。
寮舎の外周、基礎とも地震によるダメージは受けていない模様。
(6)寮舎内の構造も同様と見受けられる。
設備・備品も整然といつものとおり展示されている(写真⑩)。ただし、開拓の歴史村の方々がもとに戻してくれたのかは不明。
(7)ただ、内部の白壁には処々に新しい亀裂・ヒビが見受けられる(写真⑪、⑫)。胆振東部地震によるものかどうかは不明。
平成30年9月23日
恵迪寮同窓会文化常任委員会委員長 野本 健(S47)