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【多摩霊園への墓参について】

[サロン]

私が投稿したヤマゲン先生の墓参に関連し、本日(2022年8月1日付け)竹下忠彦さん(S53入寮、現・東日本恵迪寮同窓会幹事長)から、「八重樫さん、多磨霊園(東京都府中市)にもいらしてください。」とのお誘いを受けました。

実は、既に多摩霊園を訪れており、その時の写真を含めて記事を恵迪寮同窓会のホームページ[事務局からのお知らせに]投稿済みである。

順を追って記載すると、以下のようになる。

①2016年3月6日付け 多摩霊園に眠る先人達(その1;内村鑑三)

②2016年3月7日付け 多摩霊園に眠る先人達(その2;新渡戸稲造)

③2016年3月8日付け 多摩霊園に眠る先人達(その3;有島武郎)

④2016年3月8日付け 多摩霊園に眠る母校の先生(その1;今村成和)~今村先生は、1975年(S50)から1981年(S56)までの6年間にわたり第11代北海道大学学長を務められ、北大の発展に寄与されました。

⑤残念なのは、廣井勇のお墓が多摩霊園にあるにもかかわらず、そのことに気づかなかったことである。今でも、心残りである。

以上、①から④までは、アーカイブを利用するとみることができる。

(追)多摩霊園の総面積は128ha(1,280,000㎡)であるのに対し、里塚霊園の総面積は661,996㎡である。約半分の規模といえる。

以上

《投稿者》八重樫幸一(S41入寮。恵迪寮同窓会相談役兼広報委員会顧問)


山元周行(ヤマゲン)先生のお墓を参る

[サロン]

【山元周行(ヤマゲン)先生のお墓を参る】

①山元周行(やまもと・かねゆき)先生(以下、先生という)を始めて拝見したのは、おそらく恵迪寮同窓会北海道支部(現;北海道恵迪寮同窓会)主催の「新年寮歌歌始めの会」だったと思う。北海道支部の役員をしていた時の記録では、2008年(平成20年)1月26日(土)が、最も古い拝見日である。

②先生が、最後に「新年寮歌歌始めの会」に参加されたのは、2016年(平成28年)1月30日(土)であった。この会には、北大応援吹奏団が初参加してくれ、いつになくにぎやかでかつ楽しいものとなった。応援吹奏団の演奏が始まると、先生もシャキッと起立され、両手を打ち鳴らしながら満面の笑みを浮かべておられた。印象的なことであった。

③また前後するが、2015年(平成27年)10月31日(土)、第107回恵迪寮祭で先生と偶然お会いした。それまで先生とお話したことはありませんでしたが、先生に手招きされ、共用棟に設置された喫茶コーナーで、お昼ごろから夕方までの半日間、先生のご高説を承った。話の中心は、新渡戸稲造に対する批判であった。先生の確たる信念に触れた思いであった。

④先生については、やはり『ヤマゲンさん随想録ー北大予科教授の誇り』(山元周行先生を偲ぶ会実行委員会編、令和3年9月1日発行、非売品)に触れないわけにはいかない。ここには、先生の多様な活動と思想が描かれている。

④最後になりますが、2022年(令和4年)6月18日(土)に挙行された山本周行先生を偲ぶ会である。北大応援団のOBである延齢会の主催であったが、応援団の先生に対する思いと結束の強さに感じ入るものがあり、また遺族の蝦名雅章さん(S47入寮、第64代応援団)の挨拶とその中での先生のお墓参りを慫慂(しょうよう)する姿にも感銘を覚えた。蝦名さんに問い合わせると先生のお墓は、里塚霊園の5期1号238番にあるとのことであった。それを聞いて、よし!先生のお墓にお参りに行こうと決めた。

里塚霊園の入口

山元家のお墓(5期1号238番)

 

(追)ネットで検索すると、里塚霊園には、佐藤昌介(北海道帝国大学初代総長)、永山武四郎(陸軍軍人・第二代北海道庁長官)、永倉新八(新撰組二番隊組長)などのお墓もあることが分かった。折角の機会だから、その人達のお墓もお参りすることとした。

【佐藤昌介のお墓】
佐藤昌介については、多くを語る必要はないであろう。お墓と北大本部前にある「佐藤昌介像」を掲載させていただく。北大は、長い歴史の中で度々大学存亡の危機に遭遇した。その危機を乗り切った人物こそ、佐藤昌介であった。
なお、手元に『北海道大学の父 佐藤昌介伝ーその勇ましく高尚なる生涯』(著者 蝦名賢造、発行所 株式会社西田書店)がある。その裏表紙に、「2008.1.26(土) 恵迪寮寮歌歌始めの会の参加者に、同窓会会長横山清君から寄贈されたもの」という私が記載したコメントがついている。

佐藤昌介のお墓(5期4号856番)

墓誌

墓誌の裏面

北大本部前にある佐藤昌介像の説明文

【永山武四郎のお墓】
「屯田兵の父」といわれた永山武四郎は、屯田兵たちにお前たちはこの土地の土になれ。私も北海道の土になる、といっていたそうです。1904年(明治37年)5月、東京で療養中に亡くなったが、葬儀は札幌で執り行われたとのことです。歴代の北海道庁長官の中で、お墓と邸宅が札幌にあるのは、永山武四郎1人といわれている。

永山武四郎のお墓(5期1号522番)

 

【ここで一服!】
山元周行先生、佐藤昌介、永山武四郎のお墓は、里塚霊園の第5期の中にある。第5期は、豊平墓地(豊平区豊平5・6・7条11・12丁目)から移転改葬されたものである。

 

【永倉新八のお墓】
新撰組二番隊組長として、幕末期に池田屋事件、鳥羽・伏見の戦い等で屈指の剣腕を誇り、後年「一に永倉、二に沖田、三に斉藤」といわれた。1871年(明治4年)松前藩の藩医・杉村介庵の娘きねと結婚して婿養子となる。後に、杉村義衛(すぎむら・よしえ)と改名する。従って、お墓を永倉家で探しても見当たらず、管理事務所に問合せ、杉村家で探してようやく見つかった。なお、明治42年小樽市花園町に住む。そのころ東北帝国大学農科大学(現・北大)の剣道部の指導をした。

杉村家のお墓(永倉新八のお墓;1期3号762番)

 

以上

《投稿者》八重樫幸一(S41入寮。恵迪寮同窓会相談役兼広報委員会顧問)


恵迪寮OGでクラフト作家を目指すMOEさんが北海道陶芸展に作品を出展します。さあ見に行きましょう!

[サロン]

第50回公募展北海道陶芸展が、下記の要領で開催されます。

恵迪寮同窓会の会員でもあるMOE(旧:福岡 萌)さんが作品を出展されます。お時間の許す方は、是非、足をお運びください。

会場
札幌市民ギャラリー
札幌市中央区南2条東6丁目 電話011-271-5471

会期
2022年7月6日(水)~7月10日(日)
10:00~18:00(最終日16:00)

第50回公募展北海道陶芸展チラシpdf

◆入場料

無料

作品名
自愛、そして慈愛

出展者
MOE(旧:福岡 萌)

出展者略歴
2008年 北海道大学 工学部 応用化学科 卒業
2010年 北海道大学大学院 工学研究科 生物機能高分子専攻 修士課程 修了
2010年 製紙会社 入社(研究所配属)
2021年 東京大学大学院 農学生命科学研究科 博士課程 修了
2021年 同社 退社
2021年 北海道芸術デザイン専門学校 クラフトデザイン専攻 入学(在籍中)

(追)MOEさんは、現在クラフト系の専門学生で、木工・陶芸・金属加工を勉強中です。クラフト作家を目指しています。
なお、平成16年(2004年)に北海道大学に入学したMOEさんは、女性として初めて、平成17年度(2005年度)寮歌「遥かなる迪」の作曲をしております。

《投稿者》八重樫幸一(S41入寮 恵迪寮同窓会相談役及び広報委員会顧問)


旧北海道大学月寒学寮を探訪する!

[サロン]

これまでの資料やプリントを整理していたら、『つきさっぷ郷土資料館』という名のリーフレットが出てきました。

Ⅰ.リーフレットによると、この資料館は以下のような歴史を経ています。

(1)先ず、昭和16年(1941年)に北部軍司令官官邸として建築されました。レンガ造りの2階建て洋館(現存している)で官邸裏に木造平屋の住まい(現存していない)が繋がっていました。官邸としての使用期間は4年間。

(2)戦後は占領軍に接収され、その後昭和24年(1949年)から昭和58年(1983年)まで北海道大学の月寒学寮として使用されていました。その使用期間は34年間。その後この建物は国から札幌市に譲渡されました。

(3)その後有志による月寒資料保存会の運動が、月寒地区町内会連合会に引き継がれ、昭和60年(1985年)から札幌市と協定を結んで「つきさっぷきょど資料館」として開館し、現在に至っています。開館以来、今年(令和4年(2022年))で、37年が経過しています。

Ⅱ.この目で学寮を確かめる。

(1)この建物は、学部寮として札幌市内に残る唯一のものであり、是非この目で見てみたいと思い立ちました。

(2)館内には、4つの展示室がありました。
第1号展示室は農耕・林業関係、第2号展示室は旧軍隊関係、第3号展示室は地券、小作契約書、証文などの古文書類、そして当時の教科書などが展示、第4号展示室はみの、いろり、風呂桶、ランプなどの民具・生活道具が展示されていました。

図書コーナーには、『北海道大学月寒学寮寮生・OB名簿』が保管されており、そこには昭和25年度の最初の入寮生から昭和55年度の最後の入寮生までの全員の名簿が記載されていました。なお、この名簿は、北大文書館にも寄贈されているとのことです。(追記;月寒学寮への最後の入寮生は、昭和57年でした。名簿上の最後の入寮生が昭和55年でした。)

(3)学部寮として使用されていた時は、現存する洋館(ベッド)と既に無くなっている和館(畳敷き)の両方を使用していたようです。部屋替えもあり、寮生は和洋の両方の部屋住まいを経験していたようです。定員は22名とか。炊夫・婦さんもいました。

Ⅲ.見学して思ったこと

この建物は、今年で築81年経過しますが、そのうち月寒学寮学寮として34年使用されています。その割には、月寒学寮の匂いがほとんど感じられません。秋元館長と湊副館長の二人にお会いしましたが、湊副館長は月寒学寮のコーナーを設けることに前向きでした。そのことについて、本学寮最後の入寮生と思われる竹下忠彦さんにも電話でお伝えさせていただきました。

Ⅳ.最後に

月寒は、①明治4年(1871年)、岩手県人44戸144名が入植し、開拓使が月寒(つきさっぷ)村と命名しました。②明治35年(1902年)、豊平、月寒、平岸の3村が合併し豊平村となりました。③その後昭和36年(1961年)豊平町が札幌市に合併され今日に至っています。思えば、北大も岩手県人が開学当初から学生として入学してきております。月寒村とは無縁ではないように思います。

「つきさっぷ郷土資料館」の正面入り口

 

さっぽろ・ふるさと文化百選

 

北部軍司令官官邸として建築された洋館

 

洋館の平面図

 

北海道大学月寒学寮寮生・OB名簿

 

《投稿者》八重樫幸一(S41年恵迪寮入寮、恵迪寮同窓会相談役・広報委員会顧問。月寒学寮には入寮していません。)


西日本恵迪寮同窓会より「愛媛エルム会 と 応援団OB有志 との交流会」 の報告

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■西日本恵迪寮同窓会より

恵迪寮同窓会では数年前から「縦糸を太く・横糸を紡ぐ」を掲げ、特に縦糸活動では「寮歌前線北上計画」を展開し地区恵迪会の結成と活性化を進めてきました。西日本としては、沖縄・九州南・九州北・中国・四国・兵阪和(兵庫/大阪/和歌山)・古都(京都/奈良/滋賀)・北陸・東海の9地区で寮歌祭を企画しました。この中で「四国地区」だけが開催できていませんでした。そのような中、西日本の吉田務常任理事から「愛媛エルム会と応援団OBの有志で交流会が開催できることになった」とのお話がありました。交流会の報告書をいただきましたが、寮歌を10数曲も歌い、最後にエール交換し交流会は盛会裏に締めくくることができた。愛媛エルム会の参加者には3名の恵迪寮OBがおられたとのことでした。今後とも親交を深め、懸案であった「四国地区寮歌祭」の開催につながればと思います。交流会の報告を恵迪寮同窓会ホームページに掲載いただければ幸いです。

<西日本恵迪寮同窓会会長 植松高志(S44入寮)>

 

「愛媛エルム会 と 応援団OB有志 との交流会」 の報告

標題の件、2022年5月30日、愛媛県松山市で初めて開催されました。メンバーは愛媛エルム会9名と応援団OB有志4名の合計13名でした。愛媛エルム会と応援団OBは、全員初対面ながら多いに盛り上がり4時間弱に及ぶ盛大な交流会となりました。

1. 愛媛エルム会  (9名)
・会 長:松浦侃(S45農卒) 恵迪寮生
・幹事長:渡辺誠也(H10理卒) 恵迪寮生(第267期執行委員会)
・伊賀尚志(S40工卒)
・鈴木 聡(S55水産卒)
・濱田和雄(S61理卒) 恵迪寮生 S59年寮歌「雪の白さに」作歌者
・遠藤正敬(H9経済卒)
・加我友寛(H27医卒)
・西川明里(H27医卒)
・岡野真大(H30医卒)

2. 応援団OB有志 (4名)
・千川浩治(S40入寮) 獣医/57代応援団(恵迪寮同窓会理事)
・吉田 務(S41入学) 工 /58代応援団(恵迪寮同総会代議員)
・大谷文昭(S43入学) 水産/60代応援団(北海道恵迪寮同窓会常任幹事)
・熊崎壽勝(S43入学) 水産/60代応援団

3. 愛媛エルム会と応援団OB(大谷文昭氏)との繋がり
愛媛エルム会が150名を超す会となり、北大校章入りの会旗を作りたいと、コロナ禍前に渡辺幹事長から知己の応援団(長谷川健:87代応援団長)に支援の連絡があり、当時、応援団百年記念事業で「団旗作成担当」をしていた60代大谷文昭氏に連絡が入り、メールのやり取りが始まりました。
愛媛エルム会旗は写真に見られる様に3畳大の立派なものが完成し、同時に上記の応援団OB4名が、四国旅行を計画しており、可能なら愛媛県松山市で交流会をとの話で盛り上がりました。
但し、計画を進めた矢先にコロナ禍となり、今回計画から3年目でやっと開催にこぎつけました。

4. 交流会の状況
西日本恵迪寮同窓会でもコロナ禍前から各地区寮歌祭を盛り上げるべく活動を進めていましたが、四国全体でも地区寮歌祭は開催出来ておりませんでした。
そこで今回、愛媛初のミニ寮歌祭をとの希望もありましたが、初めての交流会であり、寮生の数も少ない事から先ずは自然な交流会とし、様子をみて『地区寮歌祭』の開催をお願いする事としました。

大谷文昭氏が、本部より借用した「都ぞ弥生」と「永遠の幸」の大垂れ幕や、各種DVD・CD・恵迪寮写真集のほか、応援団百年記念誌・ヤマゲンさん随想録等々恵迪寮はじめ、各種北大グッズや、きのとやの「札幌農学校」等々を寄贈して臨みました。
初めに応援団OB有志の自己紹介から始まり、愛媛エルム会のメンバーもそれぞれの自己紹介をして交流会が始まりました。結果、大いに盛り上がり、貸し切り会場でもあった事もあり、当初予定の2時間から4時間弱に及ぶ大交流会となりました。

寮歌は、愛媛エルム会の恵迪寮生が3名と少ない事もありましたが、参加者最年長の伊賀尚志氏(S40工卒)の強い要望で「昭和13年 津軽の滄海の」を皮切りに、草は萌え出で、タンネの氷柱、黒潮鳴れる、水産放浪歌、「あぁ百年の応援団」、濱田和雄氏作歌の「S59年寮歌 雪の白さに」、先に今治に帰る濱田和雄氏のために「別離の歌」等々10曲ほどが絶え間なく続きました。
最後は、全員で肩を組み『都ぞ弥生』の大合唱、更に「フレーフレー北大」と「フレーフレー愛媛」で締めくくりました。
会の途中では、四国では地区寮歌祭が未だ開催されていない事、今後地区寮歌祭の開催も検討して頂きたい事もお伝えしました。
最後に、全員で記念撮影をして名残を惜しんでの解散となりました。

<吉田 務 記>