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山元周行(ヤマゲン)先生のお墓を参る

[サロン]

【山元周行(ヤマゲン)先生のお墓を参る】

①山元周行(やまもと・かねゆき)先生(以下、先生という)を始めて拝見したのは、おそらく恵迪寮同窓会北海道支部(現;北海道恵迪寮同窓会)主催の「新年寮歌歌始めの会」だったと思う。北海道支部の役員をしていた時の記録では、2008年(平成20年)1月26日(土)が、最も古い拝見日である。

②先生が、最後に「新年寮歌歌始めの会」に参加されたのは、2016年(平成28年)1月30日(土)であった。この会には、北大応援吹奏団が初参加してくれ、いつになくにぎやかでかつ楽しいものとなった。応援吹奏団の演奏が始まると、先生もシャキッと起立され、両手を打ち鳴らしながら満面の笑みを浮かべておられた。印象的なことであった。

③また前後するが、2015年(平成27年)10月31日(土)、第107回恵迪寮祭で先生と偶然お会いした。それまで先生とお話したことはありませんでしたが、先生に手招きされ、共用棟に設置された喫茶コーナーで、お昼ごろから夕方までの半日間、先生のご高説を承った。話の中心は、新渡戸稲造に対する批判であった。先生の確たる信念に触れた思いであった。

④先生については、やはり『ヤマゲンさん随想録ー北大予科教授の誇り』(山元周行先生を偲ぶ会実行委員会編、令和3年9月1日発行、非売品)に触れないわけにはいかない。ここには、先生の多様な活動と思想が描かれている。

④最後になりますが、2022年(令和4年)6月18日(土)に挙行された山本周行先生を偲ぶ会である。北大応援団のOBである延齢会の主催であったが、応援団の先生に対する思いと結束の強さに感じ入るものがあり、また遺族の蝦名雅章さん(S47入寮、第64代応援団)の挨拶とその中での先生のお墓参りを慫慂(しょうよう)する姿にも感銘を覚えた。蝦名さんに問い合わせると先生のお墓は、里塚霊園の5期1号238番にあるとのことであった。それを聞いて、よし!先生のお墓にお参りに行こうと決めた。

里塚霊園の入口

山元家のお墓(5期1号238番)

 

(追)ネットで検索すると、里塚霊園には、佐藤昌介(北海道帝国大学初代総長)、永山武四郎(陸軍軍人・第二代北海道庁長官)、永倉新八(新撰組二番隊組長)などのお墓もあることが分かった。折角の機会だから、その人達のお墓もお参りすることとした。

【佐藤昌介のお墓】
佐藤昌介については、多くを語る必要はないであろう。お墓と北大本部前にある「佐藤昌介像」を掲載させていただく。北大は、長い歴史の中で度々大学存亡の危機に遭遇した。その危機を乗り切った人物こそ、佐藤昌介であった。
なお、手元に『北海道大学の父 佐藤昌介伝ーその勇ましく高尚なる生涯』(著者 蝦名賢造、発行所 株式会社西田書店)がある。その裏表紙に、「2008.1.26(土) 恵迪寮寮歌歌始めの会の参加者に、同窓会会長横山清君から寄贈されたもの」という私が記載したコメントがついている。

佐藤昌介のお墓(5期4号856番)

墓誌

墓誌の裏面

北大本部前にある佐藤昌介像の説明文

【永山武四郎のお墓】
「屯田兵の父」といわれた永山武四郎は、屯田兵たちにお前たちはこの土地の土になれ。私も北海道の土になる、といっていたそうです。1904年(明治37年)5月、東京で療養中に亡くなったが、葬儀は札幌で執り行われたとのことです。歴代の北海道庁長官の中で、お墓と邸宅が札幌にあるのは、永山武四郎1人といわれている。

永山武四郎のお墓(5期1号522番)

 

【ここで一服!】
山元周行先生、佐藤昌介、永山武四郎のお墓は、里塚霊園の第5期の中にある。第5期は、豊平墓地(豊平区豊平5・6・7条11・12丁目)から移転改葬されたものである。

 

【永倉新八のお墓】
新撰組二番隊組長として、幕末期に池田屋事件、鳥羽・伏見の戦い等で屈指の剣腕を誇り、後年「一に永倉、二に沖田、三に斉藤」といわれた。1871年(明治4年)松前藩の藩医・杉村介庵の娘きねと結婚して婿養子となる。後に、杉村義衛(すぎむら・よしえ)と改名する。従って、お墓を永倉家で探しても見当たらず、管理事務所に問合せ、杉村家で探してようやく見つかった。なお、明治42年小樽市花園町に住む。そのころ東北帝国大学農科大学(現・北大)の剣道部の指導をした。

杉村家のお墓(永倉新八のお墓;1期3号762番)

 

以上

《投稿者》八重樫幸一(S41入寮。恵迪寮同窓会相談役兼広報委員会顧問)