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同窓会員の近著紹介

[サロン] [事務局からのお知らせ]

S46年入寮の加藤秀弘さんそして同じくS46年入寮の高井保秀さんが最近著書を出版され事務局に贈呈頂きましたのでご紹介いたします。

事務局長 佐藤 市雄

1.クジラ博士のフィールド戦記 加藤 秀弘著

略歴:著者はS46年入寮、現在一社恵迪寮同窓会理事 東日本恵迪寮同窓会副会長
S47年寮歌「楡陵に月は」の作歌者 水産学部増殖科卒業後、同大学院水産学研究科、(財)鯨類研究所、水産庁遠洋水産研究所鯨類生態研究室室長等を経て、東京海洋大学海洋研究学科教授、2018年同大学名誉教授となり、長年にわたって国際鯨類研究者として活躍IWC(国際捕鯨委員会)の科学委員会ホエールウオッチング委員会議長としても14年間務める。
学生時代、襟裳岬で海豹(アザラシ)に出会い、強烈な印象を受けこの道に入るきっかけとなった。トッカリ(=アザラシ)船に乗ってオホーツク海での調査経験など著者の現場を重視人間味あふれる研究体験談が詳細に語られています。
恵迪寮生活:著者の恵迪生活の一端を紹介する件は以下の通り「教養部裏の原始林にあった学生宿舎の恵迪寮は、クラーク教頭の“青年よ大志を抱け!”で著名な札幌農学校寄宿舎を草創とし、北海道帝国大学予科の伝統を引き継いだ全国有数のバンカラ寮で、ここの水があっていたようだ。たくさんの友ができ、たくさんのものを考え、たくさん酒を飲み、たくさん寮歌を覚え、そして1906年以来脈々として続いていた年次寮歌作詞に名を連ねた。」
ライフワーク:鯨の耳垢栓(外耳道に栓状に蓄積される垢で、歯のないヒゲ鯨類の年齢を査定する形質)の研究でも年間3000頭のミンククジラの耳垢栓を研究材料として、鯨の性成熟年齢の若年化をIWC科学委員会にも発表し25年間の論争に決着をつけた。
IWC脱退問題:本著書はクジラの分類的解説に始まり最近の日本のIWC脱退に至る経緯が詳細に述べられている。IWC脱退の裏には関係者の粘り強い努力もあったことや、オーストラリアによるICJ(国際司法裁判所)提訴での結果も報道で言われているような一方的な敗訴ではないことなどが詳述されています。

以上

光文社新書 定価(本体840円+税)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.「瑠美子、君がいたから 二人で歩んだ人生ノート」    高井 保秀 著

著者略歴 S46年入寮 水産学部卒 食品輸入商社で国内営業・人事畑を長く経験
44歳で米国ロスアンゼルスの食品スーパーマーケットの経営を4年余り担当、帰国後取締役に就任
妻のがん発病を機に61歳で退任、闘病生活を二人で歩む。現在は医療機器の研究開発の会社の非常勤監査役。

著者の最愛の妻が肺腺がんとなり脳へ転移して重篤ながん性髄膜炎となり緩和ケア病棟に入院してからの233日の闘病の記録や想いを本人「高山伸一」妻「中川瑠美子」その他の登場人物も仮名として小説風に書かれている。
大阪岸和田市出身の伸一は親から遠く離れたところを目指し北大へ入学恵迪寮に入った。恵迪寮での思い出はジャンプ大会の優勝だった。
「伸一は水泳部の部屋、S 上の住人として、小さな水着一つで参加した。・・・・・・伸一の一回目の飛距離は5m55cmで、首位に立った。・・・・・2回目の飛技が始まった。・・・・『この勝負負けられん』伸一は挑戦者の気持ちで思いっきり窓枠を蹴った。身体は一瞬宙に舞い、そのあと重力に引かれ急速に雪山に落ちていった。結果は5m58cm、裸の身体に雪がまとわりついた。
これで伸一は、1972年恵迪寮のジャンプ大会の優勝者となった。このことが学生時代の印象深い思い出になった。」

卒業後食品輸入商社の大阪営業所に配属勤務し、後に妻となる瑠美子と出会い結婚、札幌に転勤懐かしい札幌で新婚生活を過ごす。その後、東京本社、大阪と転勤し、95年ロスアンゼルスの食品スーパーの経営を任され二人で移住した。瑠美子は異国の地ロスにもすぐ馴染み、地元のテニスクラブに入会しテニスを通じて仲間を増やしていった。子供のいない二人にはここで、家族の一員ともいうべき愛犬「ケン」が加わった。ケンは4年後東京へ転勤後も亡くなるまで二人の子供のような存在だった。2013年ケンが去った直後の検診で瑠美子の肺がんが見つかった。2014年2月にがんの手術を受けた。その結果、がんが転移していることが分かり、二人は医師の進める抗がん剤治療をするか他の方法に依るか悩んだ末に自然治癒力を高める「食事療法」を選んだ。二人は「求道僧のように、食事を中心とした免疫力アップの生活を追い求めた。」2016年9月頃頭に痛みが出始め最初のMRIでは脳への転移ではないと言っていたが、10月になり「がん性髄膜炎」を言い渡された。2017年3月まで入院治療その後自宅療養したが、4月以降病状が急速に悪化した。「脳機能障害は恐ろしかった。初めは複視の症状が出て、徐々に歩行が困難になった。食事の嚥下が難しくなり、話せなくなった。最後は顔の表情も出なくなった。」

2017年7月、様々に悩んだ末に緩和ケア病棟への入院を決断した。入院後伸一は殆ど1日中を病室で瑠美子共にいて介護に専念し、人参や果物ジュースを自分で作り、飲ませたり、毎日股関節の運動を欠かささなかった。症例の少ないがん性髄膜炎という病気の妻と闘病する中で、他の人にも役立つようにと闘病の記録を描くことを思い立ち今までの二人の思い出や瑠美子へのこれまで語らなかった言葉を綴ることにした。こうして、克明な闘病記録を描く中で心の平静を取り戻し、最後まで瑠美子の回復をあきらめずに介護した。それは、緩和ケアにも拘らずオプジーボの投与を願い出て実現したことにも表れているそのことが、瑠美子にも通じて本人も最後まで病魔と闘い、安らかに眠られたと思われる。この本は、身近にがんで闘病し又それと闘う伴侶や家族の良い手引きとなると共に夫婦の何気ない日常がどんなに貴重なものかを気付かせてくれる。

亜璃西社刊 定価「本体1,500円+税」

 

 

 

 

 

 

紹介文(PDF)もどうぞご覧ください  瑠美子_新刊案内