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月別アーカイブ: 2016 3月

多磨霊園に眠る先人達(その2;新渡戸稲造)

[事務局からのお知らせ]

埋葬場所:多磨霊園 7区 1種 5側 11番

■新渡戸家の墓所は正面「新渡戸稲造之墓」。右に稲造の長男で早死した長男「新渡戸遠益之墓」。左に墓誌がある。

新渡戸彰敏は孫と刻み、墓誌には新渡戸誠(彰敏)と刻む。墓誌は稲造、萬里子、遠益、こと、誠の順に刻む。
墓誌の裏面は上に「正三位勲一等新渡戸先生墓誌」というタイトルで新渡戸稲造の略歴が刻むプレートがはめられている。
下にはその経緯が刻み、それによると、昭和60年10月3日に兄の新渡戸誠(彰敏)の納骨に当たり、祖父の新渡戸稲造の墓より出土したとのことである。昭和8年12月2日の稲造の遺骨と共に納められたとある。これを泥中に返すのではなく、ここに清拭して墓誌碑の裏面に掲げ、大方の清覧に供せんとすと刻む。これは新渡戸誠(彰敏)の妹の加藤武子の言葉として刻む。

*墓所添いの角地に新渡戸稲造像が建つ。

■<新渡戸家の家族>

稲造の養子の孝夫は稲造の姉の喜佐(1857-1943)の三男。旧姓は河野。ジャパンタイムズ主筆・編集長を務めた。
養女のこと は稲造の姉の峯(1845-1916)の子の磯の長女。
孝夫とこと の間に長男の誠(彰敏)、武子(1920-)がいる。武子は加藤英倫に嫁いだ。加藤英倫は新渡戸稲造全集の解説や訳などを担当した。

本人;新渡戸稲造(新渡戸家第44代当主)
妻;新渡戸萬里子
長男;遠益
養子;孝夫(よしお、姉・喜佐の次男)
養女;こと子(姉・みねの孫)
孫;彰敏(本名は誠、新渡戸家第45代当主)、武子

【新渡戸稲造】
1862.9.1(文久2.8.8)-1933(昭和8).10.15。満71歳没

盛岡藩勘定奉行新渡戸常訓の子。1877(M10)札幌農学校第2期生として内村鑑三らとともにキリスト者となる。

1881(M14)卒業後、北海道開拓使に就職。1883(M16)東大文学部選科生で入学したが中退し、1884(M17)ジョンズ-ホプキンズ大に留学。

1887(M20)札幌農学校助教(今の准教授)となり、ドイツ(ボン大学、ベルリン大学、ハレ大学)へ公費留学し、法学・農業経済を研究。

1891(M24)メアリー・エルキントンと結婚し帰国。 札幌農学校の教授となる。1892(M25)1月長男・新渡戸遠益(トーマス)誕生するもM25.1.27に生後8日で亡くなる。

1901(M34)台湾総督府技師、1903(M36)京大教授をへて、1906~1913(M39~T2)一高校長として学生に深い人格的影響を与えた。

1913(T2)東大の専任の教授となり、植民政策講座を担任。1918(T7)東京女子大初代学長となる。
また1920~1926(T9~S1)国際連盟事務次長として活躍。1921(T10)のオーランド諸島の領土紛争を解決した「新渡戸裁定」は有名。
1933(S8)カナダの太平洋調査会の国際会議に出席中ヴィクトリアにて客死した。

クエーカー教徒として、国際平和を主張し続け、1895(M28)『友徒の特

色』を著し、戦争に反対して国際紛争を平和的仲裁によって解決すべきであると解き、 また太平洋の橋になるという青年時代に抱いた希望を実践し、その生涯を国際平和のために献げた。
主著は『農業本論』、伝統的な日本精神を紹介し他国に共感を得た『武士道』などがある。 <コンサイス日本人名事典><学習人名辞典>
【新渡戸萬里子】
1857.8.14(安政4)-1938(昭和13).9.23 享年81歳

旧姓メアリー・パターソン・エルキントン。新渡戸稲造(同墓)の妻。アメリカのフィラデルフィア州のフレンド派の家に生まれる。
1886(M19)フィラデルフィアの富豪モリス家で新渡戸稲造と出会い、1891(M24)結婚。翌月に来日し札幌で暮らす。
翌年、長男誕生、稲造の親友トーマス・エジソンから名前をとり遠益(トーマス)と名づけたが、一週間あまりで死亡(同墓)。萬里子は体調を崩して一時アメリカへ帰国したが、再び来日。

私財を投じて貧しい少年たちのために遠友夜学校を設立して第二代校長となる。また日本人道会を設立し、会長に就任。動物愛護運動の先駆的な役割を果たした。
1938(S13)心臓病のため軽井沢にて死去。享年81歳。 <日本女性人名辞典><近代日本の先駆者><中村祐二様より情報のご提供>
《新渡戸稲造の名言。7点だけ掲示する》

・武士道精神は損得勘定をとらない.むしろ足らざることを誇りにする.

・富の道が名誉の道ではない.

・武士道の究極の理想は平和である.

・学べどもなお学べども学べども学び足りぬは学びなりけり.

・籠城主義もいいが、それは手段であって目的ではない.寄宿舎の窓を開いてもっと世の中に接し、社会的観念を養成して実社会に活動できる素地をつくれ.

・自分が生まれてきたときより死に至るまで、周囲の人が少しなりともよくなれば、それで生まれた甲斐があるというものだ.

・国民倫理体系は忠君愛国を強制したが、これまでその目標に達したことはなかった。こんな体系は狭い基礎に立てられているから、人間の魂には狭すぎる。もちろん失敗するにきまっている。

その名に直する宗教は、全人を認めなければならぬ。そして国家は、人間の全体を包括しはしない。人間は国家より大きい。人間は自分の内に、この世の国や、国家の一切の主張を超越するものを待っている。人間の無限の魂を、国家の限られた枠組の中に閉じ込めることはできない

《新渡戸稲造を手短に知ることができる書籍》

書籍名;『新渡戸稲造ものがたり』ー真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬけるー
著者;柴崎 由紀
発行所;㈱銀の鈴社
価格;定価1500円+税

※本記事の大半は、インターネット「歴史が眠る多磨霊園」に依拠した。

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NITOBE TOMASUの墓

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新渡戸家の墓誌

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新渡戸家の墓所

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墓所沿い角地に建つ新渡戸稲造の像


坂口君が平成遠友夜学校の講師に!

[サロン]

坂口謙一郎君(H19年恵迪寮入寮、第99代応援団長)が、平成遠友夜学校の勉強会の講師をします。

彼には、彼が現役生時代、恵迪寮同窓会としてお世話になりましたので、彼に断りもなく写真をシェアさせていただきます。

《以下は、平成遠友夜学校の勉強会の紹介です》

日時:2016年3月8日(火)18:15~
会場:遠友学舎(北18西7)
演題:「牛の繁殖について ―酪農畜産の現場はここまで来ている―」
講師:北海道大学 獣医学部卒 坂口謙一郎先生
参加者:どなたでも受講できます。

<坂口先生からのメッセージ>

僭越ながら一般の札幌市民の方向けに自身の専門分野について話す機会をいただきました。お手すきの方は是非お越しください。
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多磨霊園に眠る先人達(その1;内村鑑三)

[事務局からのお知らせ]

(本来談話室に掲載すべきだが、容量の関係で「事務局からのお知らせ」を使用します)

埋葬場所:多磨霊園 8区 1種 16側 29番

内村家の墓所には日本で最初の洋型墓石と言われる墓石が三基建つ。 右から内村家、真ん中が精神医学者・プロ野球コミッショナーなどを務めた長男内村祐之(北海道帝国大学教授、東京帝国大学教授を歴任)、左が鑑三と静子である。

鑑三・静子の墓石には
I for Japan,
Japan for the World,
The World for Christ,
And All for God.
と刻む。

なお、その左隣りには長女ルツ子の墓誌碑と墓誌が建つ。

【内村鑑三】
1861.3.23(万延2.2.13)-1930(昭和5).3.28。享年69歳

明治・大正期のキリスト教の代表的指導者。新渡戸稲造らと共に札幌農学校に学びクリスチャンとなる。米国留学後、伝道生活に入り「余は如何にして基督信徒になりし乎」などを著わす。
また足尾銅山事件で財閥を攻撃し、日露戦争には反戦論を唱えた。
特定の教派・神学を持たず、聖書のみにもとづく信仰「無教会主義」を唱え、学問的聖書研究と武士道的エートスと深い人格的結合によって、強烈な福音主義的思想を形成し影響を与えた。 <コンサイス日本人名事典>

【内村静子(うちむら しずこ)】
1874(明治7).5.20-1945(昭和20).2.8

内村鑑三の後妻。旧姓岡田。

鑑三は農商務省時代の1884(M17)浅田タケと結婚したが約半年で離婚。
渡米して帰国後、第一高等中学校などで教鞭をとり、横浜加寿子と再婚した。 しかし1891第一高等中学校在任中に不敬事件を起し退職、加寿子は貧乏と夫の看病に疲れ死没した。
その翌年、「築山もと」なる女性と三度目(?)の結婚をしたらしいが、これについては正確な事実は伝わっていない。
1892(M25)静子(シズ)と結婚。1894長女ルツ子(同墓)、1897長男祐之(同墓)を出産。 1912ルツ子は満17歳の若さで病死した。ルツ子の死は鑑三の思想にもかなりの影響を与えた。この深刻な出来事は来世の確信に導き、やがて起こった第一次大戦により、1918(T7)から、 キリストの再臨を待望する再臨運動を展開のきっかけを生んだ。鑑三の生涯で最も充実した時期を支えたのが静子である。 <女性人名事典など>
《内村鑑三の名言。5点だけ掲示する》
・人生にとって一番の幸福とは何か?
それは自分の天職を知ってこれを実行に移すことである。

・喜びの声を発すれば喜びの人となり、悲しみの声を発すれば悲しみの人となる。

・一日は貴い一生である。
これを空費してはならない。

・もし全世界を手中に収めようとも、そのために自分の魂を失ってしまえば一体何の意味があろう。

人生の目的は金銭を得ることではない。品性を完成することである。

・誠実から得た信用は最大の財産となる。
<本記事の大半は、インターネット「歴史が眠る多磨霊園」に依拠した。>
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内村鑑三・静子の墓

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内村鑑三・静子の墓の本体部分

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長男・内村祐之の墓

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長女・ルツ子の墓誌碑

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内村家の墓