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加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第5弾)

[サロン]

【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。

この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。

※ホームページにも掲載します。

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19ポプラ並木:
超有名なポプラ並木が途切れた辺りから、さらにはるか向こうに寮が望めた。寮の裏手は原始林だったので、建物はわずかしか見えなかった。この辺りに立つと、広々とした如何にも北海道という感じがした。ポプラも爽やかな木だった。

 

19ポプラ

 

20寮祭・ファイアストーム:
9月は寮祭。寮をあげての祭りだ。いろんな行事がある。しかし、何と言っても最大の興奮をもたらすのが、ファイアストームだ。全寮生が肩を組み、飲んで、歌って、踊りまくる。もちろん、歌は寮歌、踊りはストーム踊りだけだ。

 

20ファイヤーストーム

 

21寮祭・仮装行列:
もう一つは仮装行列。時の話題を大テーマにして、4つの寮毎に小テーマを仮装で表現した。この年は、「カッパ社会の倍増」がテーマ。お金をかけない手造り仮装なので、お世辞にも綺麗とは言えない。むしろ汚いといった感じだった。

 

21仮装行列

 

22寮祭・駅前ストーム:
入学のため裏日本の田舎町から初めて札幌駅に着いたとき、広い駅前通りを見て、清々しさを感じた。その駅前で、我が物顔で踊り狂ったのが、駅前ストームである。ストームの歌の替え歌もあった。♪早くなりたや札幌の~農学士~。

 

22駅前ストーム

 

23水産生追いコン:
水産学部は函館にあったので、水産学部生は9月末には寮を出なくてはならない。そこで、追い出しコンパが行われていた。食堂でのささやかな料理と酒でのコンパだ。「水産放浪歌」を歌い、「別離の歌」を歌うと、本当に寂しくなった。

 

23追いコン

 

                                                      以上


加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第4弾)

[サロン]

【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。

この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。

※ホームページにも掲載します。

 

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14初夏:
観桜会が済むと、北の街の一番素敵な季節が始まる。初夏だ。寮の周りは、原生林(原始林)。木々が一斉に芽を出し、若葉を伸ばしていく。その内、郭公が鳴き出す「カッコー、カッコー」。もう授業なんぞ行きたくなくなる季節でもある。

 

14初夏

 

15小樽商大戦:
隣の都市小樽にある旧小樽高商と北大予科との野球試合が、昭和初期から続いていた。時は6月。応援の主体は恵迪寮生。小樽まで行き、球場まで寮歌を歌いながら行列行進する。♪瓔珞みがく~石狩の~源遠く~訪いくれば~。

 

15対商大戦

 

16中庭:
寮は4棟構成なので、周りの原始林が見えない棟がある。その代わりに中庭があり、癒しの空間だった。お茶目な先輩が、ある休日、庭木に登った。部屋の仲間がこれを見て、やんやの喝采。天気は良し、のんびりした休日だ。

 

16中庭

 

17プール開き・水球:
寮の裏手にプールがあった。毎年7 月になると、プール開きが行われた。4つの寮の対抗戦として、いろんな種目が競われた。その一つに水球があった。といっても足が着く深さだったので、泳ぐより走る水球だったから猛烈に疲れた。

 

17水球

 

18水泳検定:
体育の単位を貰うには、水泳検定に受かる必要があった。屋外プールでやるのだが、水は緑色に濁り、目を開けられない。水泳は得意なのだが、大きく曲がってしまった。北海道出身者には泳げない者もいて、友人の代役も請け負った。

 

18水泳検定

 

                                                以上


加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第3弾)

[サロン]

【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。

この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。

※ホームページにも掲載します。

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9議論:
部屋ではよく議論した。テーブルに陣取り、安いトリスを飲みながら夜を徹して行っていた。たいした話ではないのだが、議論の種は尽きなかった。筆者は浪人入学者だが、現役で入った同い歳の先輩がなかなかの論客で、何時も最後は説得されていた。

 

9議論

 

 

10部屋コン:
部屋でのコンパもよくやった。一つのベッドの布団を片付ければ、たちまちそこが会場。安い合成酒やトリスをがぶ飲みして、談論風発、爆笑連発。疲れ果てれば、一人一人とベッドに倒れ込む。翌日の授業など、全く念頭になかった。

 

10部屋コン

 

 

11観桜会:
寮にはいろんな行事があった。春先の大事な行事は観桜会。桜は5月の連休に入ってから開花する。寮から応援団を先頭にして、列を連ねて街を練り歩き、円山公園を目指す。もちろん、寮歌放吟しながらだ。一体感醸成の大事な行事だ。

 

11観桜会

 

12観桜会・四丁目ストーム:
観桜会では2回ストームをやる。札幌駅前と四丁目交差点である。♪醒~めよ~迷いの~ゆ~め醒めよ~。♪札幌の~農学校~蝦夷が島~。肩を組んでのぐるぐる回り。電車も車も停めたから迷惑なことだが、市民の目は暖かった。

 

12四丁目

 

13観桜会・円山公園:
公園に着くと、本番の大宴会が始まる。勝手に円陣を組んで、酒を交わす。円陣の中心には高台が設けられ、サークルや友人数人ずつが登り、好きな寮歌を放吟する。周りで肩を組んで踊り出す者も出る。肝心の桜はもうお構いなしだ。

 

13円山

 

 

以上


加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第2弾)

[サロン]

【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。

この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。

※ホームページにも掲載します。

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【今回は、第2弾です。】

 

4部屋:
部屋では、ベッドと机が一人の空間。洗濯物や着る物は、ベッドの上に紐を通し、ぶら下げた。寒い北の街だが、スチームが通っていたので暖かかった。明け方スチームが通り始める時のカチン、カチンという音が懐かしい。

4部屋

 

5落書き:
部屋には壁一面に落書きがあった。壁ばかりか天井にもあった。部屋の先住者、つまり先輩達が書き残したものである。落書きは、つぶやきから哲学的なものまで様々だったが、卑猥なものは皆無だった。寮生の誇りがあったのだろう。

5落書

 

6エッセン:
寮用語は、何故かドイツ語だった。だから食事はエッセン、おかずはネーベンだった。エッセンは食堂で採る。テーブルに4人揃ったら食事開始。当時鯨肉がよく出たので、寮生は「げいてき寮」と自虐気味に言っていた。

6エッセン

 

 

7ブキ:
寮生は皆ブキを持っていた。と言うと、如何にも物騒な話だが、ブキとはフォークである。エッセンの時、箸ではなくフォークを使ったのだ。一本で、切る、突く、掬うことができる便利なものだった。

 

7ブキ

 

 

8部屋割りサークル:
同好の士が5人集まれば、サークルとして一部屋貰えた。筆者は、ユーゲントコールに入った。近くの看護学校寮生と混成合唱をするサークルだったから、寮内では軟弱派だった。他には硬派として応援団、空手、柔道等があり、学生運動派のサークルもあった。

8部屋割り

 

以上


加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第1弾)

[サロン]

【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。
この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。

なお、加藤さんはお酒もこよなく愛されているようで、東京都内にある多くの居酒屋の絵もほのぼのとお描きになっています。

(追)折角の機会でもあり、ホームページ(サロン)にも掲載させていただきます。

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0表紙:
『絵で見る青春の恵迪生活―昭和三六~三八年の北大・恵迪寮―』のご紹介

上記の本を、昨年アマゾンkindleで出版しました(定価100円)。
電子ブックに不慣れな方もおられるかと思い、許されれば本の内容を同窓会のFacebookページで公開させて頂こうと思います(文章は簡略化)。

0表紙

 

00冬の恵迪寮玄関:
当時の教養部の教室(クラーク会館の近く)は寮からかなり遠かった。冬には雪が積もり、寒いので、授業に出るのは大変だったが、寮の外観は趣が出た。

00冬の恵迪寮玄関

 

1恵迪寮とは:
「恵迪」とは、書經にある「迪に恵えば吉し(みちにしたがえばよし)」から取ったものである。この言葉を、寮の一期生佐藤昌介(後の総長)が揮毫した額が、食堂に懸っていた。

 

1恵迪額

 

2寮の構造:
寮は2階建て、4棟構成だった。寮生が5人ずつ居住した部屋が60あった。部屋には洗面台はあったが、トイレはなく共用だった。部屋割りは半期毎に変更された。

2構造

 

3入寮詮衡会:
寮の運営は自治会に任されていたので、入寮詮衡も自治会が行った。詮衡基準は経済的困窮度が第一だが、その他は明らかにはされていなかった。筆者は、先輩牟田悌三(昭和20年入寮、俳優)が寮を訪問するテレビを見て、寮生活にあこがれるようになったことをアッピールした。

 

3入寮詮衡の模様

 

以上