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今こそ 新渡戸稲造

[サロン]

今こそ 新渡戸稲造本日(2015年5月18日)付けの朝日新聞朝刊の文化・文芸コーナーに、
「今こそ 新渡戸稲造」という記事が載った。

その冒頭に以下のような文章(『』内の文章)が書かれている。

『「シェークスピアではなく、観光業に必要な英語を」「憲法ではなく道交法を」。
昨秋、大学の役割を話し合う政府の有識者会議で、こんな提言が注目された。重工業など一部の「グローバル産業」と、飲食・小売り・福祉などの「ローカル産業」に経済圏を分類。学生をローカル産業に送
りだす大学を「L型大学」と呼び、職業訓練校化も検討すべきという主張だ。(注;L=ローカル)大学全入時代に大学に期待されるのは、教養より「即戦力」要請なのかもしれない。とはいえ、どんな職業にも通じる教養はないのだろうか。』(以上で引用は終わり)

有識者会議の意見は、端的に言えば、一部の学生には全方位を学ぶ機会を与え、多数の学生にはhow-to(実用的な分野での作業方法や技術)を教えればよいとする考えだろう。
言い方を変えれば、考えて意思決定する学生は少数でいい。あとの学生は、余分なことを考えずに日常の仕事に没頭し、重要な決めごとは一部のエリートに任せればよい、という風に聞こえる。

この一部のエリート学生は、言ってみれば手作業しか知らない多くの学生たちに対して、未来永劫経済的な満足を与え、争うごとのない平和な社会を提供していけるのだろうか。とてもそうとは思えない。エリート学生が神のように優秀とは思えない。また、このような提言をする有識者なる人間も、神のように全知全能とは思えない。逆に、欲の強い、自分を守ることを最優先に考える人たちである。困難な問題を解決する力もなければ、平和な社会を形成する力もないように見える。

やはり、全ての国民が自分で考え、自分で判断する能力をつけさせることが教育の最大の役割だと思う。確かに、考える力のない国民ばかりだと、政治は一部お権力者が思いのまま進められる。そして、国民が不幸な状況に落とし込まれても、異議を唱える人はいない。こういう政策を愚民政策という。

徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の実父で、水戸藩の第9代藩主である徳川斉昭(なりあき)は、「百姓に学問など全く不要だ」「ただひたすら農耕に励んでさえいればよい」と公言した上で、農民を「愚民」「頑民(がんみん)」と呼んでいた。時代を逆回転させてはならない。

要は、人間から考える力と判断する力を奪ってはならない。それは例え神でも許されない。どのような人間であっても、わけも分からず、どん底に突き落とされるようなことは許されない。