三島徳三北大名誉教授も9月18日付け道新の「本と旅する」に関して投稿されています
[サロン]
2016年10月14日付けで恵迪寮同窓会HPのサロンに、評伝「関矢孫左衛門」の著者石村義典君(S40入寮)が道新(9/18)「本と旅する」に登場した旨を掲載しましたが、同じ道新の記事を見て、三島徳三北大名誉教授も、ご自身のFacebookに投稿されているので、転載の上ご紹介します。
<以下、投稿文です>
≪野幌太々神楽と北越殖民社≫
北海道新聞日曜版2016年9月18日付けの「本と旅する」シリーズに野幌開拓のことが書かれている。村上龍の『希望の国のエクソダス』に野幌が出てくるからだ。
野幌(現在は江別市の一部)は1889年(明治22年)に北越殖民社によって開拓の鍬が入れられた。北越殖民社は旧長岡藩士の関矢孫左衛門、三島億次郎らによって、現在の長岡市につくられたもので、明治政府下で疲弊していた農民を組織し、北海道に新天地を求めたものであった。
創設者のひとりである関矢家は今でも野幌にある。関矢孫左衛門の孫である信一郎氏は、私と同じ北海道大学農学部の先輩で、農芸化学科の卒業である。関矢さんと私は、土壌肥料学の権威で遠友夜学校功労者でもあった石塚喜明教授(故人)を通じて親交がある。実は、娘夫婦が経営しているイタリア料理店ラ・フォルケッタも農園も、関矢さんからの借地なのだ。
野幌に入植した北越殖民社の末裔は、現在も野幌にたくさんいる。野幌神社では毎年(8月31日、9月1日)の例大祭で野幌太々神楽の奉納がある。これは、北越殖民社の誕生の地である新潟県長岡市周辺に伝わる舞を継承したものである。野幌小学校に通う私の孫(長女)は、舞子のひとりである。今年から3番目の孫(男子)も舞子になった(写真…(注)三島先生の投稿にはあるんですが、残念ながら技術的に未熟なため転載できませんでした)。
野幌小学校は、生徒数が50人くらいの小さな学校だが、地域の自然と伝統芸能を大事にしている。生徒と教師、父兄の絆も強い。村上龍が書いているように、「(この土地には)生きる喜びのすべて、家族愛と友情と誇り、そういったものがある。」
話は違うが、北越殖民社が生まれた長岡藩の明治維新前後の様子について、司馬遼太郎が『峠』という小説に書いている。主人公は長岡藩家老・河井継之助である。継之助は北越殖民社の創立者のひとりである三島億次郎とは幼馴染である。
戊辰戦争において、長岡藩は薩長率いる官軍に徹底抗戦し、継之助は戦闘中の銃創がもとで敗走中に無念の死を遂げる。だが、長岡藩は幕府軍の拠点・会津藩と合流し、さらに奥羽越列藩同盟を31の藩でつくり、官軍と戦った。結果はご承知のとおり、官軍の圧勝で、榎本武揚や土方歳三らの残党は、蝦夷地に逃れ、一時期「蝦夷共和国」をつくるが、函館戦争で官軍に敗れ、土方は戦死する。
再び飛躍するが、今年夏の参議院選挙で自公が圧勝したが、東北と新潟県の一人区では、秋田県を除き、野党共闘候補がいずれも勝利した。奥羽越列藩同盟の再現を思わせる。ちなみに秋田藩(佐竹氏)は戊辰戦争でも幕府軍に寝返った。
明治新政府は大国主義を掲げて東アジアを侵略し、いまの安倍政権も「強い日本を取り戻す」と言って、グローバリズム・成長戦略を突っ走る。その路線を6割の国民が支持している。
地域の絆を大切にし、地産地消の小さな経済圏と武器のない平和な社会を作り出す「ローカリズム」こそ、いま改めて追求すべき方向ではないか。そういったことを野幌太々神楽と村上龍『希望の国のエクソダス』から夢想する。
(追)
郷土史の傑作と言われる『野幌部落史』は、関矢孫左衛門の子息である関矢留作(東京大学農業経済学科卒業)によってまとめられ、同氏の病没後、妻の関矢マリ子さんによって陽の目を見ました。
以上