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事務局からのお知らせ

≪現寮生の恒例の観桜会に参加し、交流を図ろう≫

[事務局からのお知らせ] [北海道支部]

現寮生の観桜会が、次の要領で開催されます。
現寮生との交流を図る場となりますので、OB/OGで参加を希望する方はお申し出ください。

【開催要領】

1.日程 平成28年5月1日(日)<雨天中止>

2.場所 円山公園

3.時間 午前9時30分恵迪寮出発~道庁~大通公園を経て12時30分円山公園到着
(予定ですので若干の変更の可能性があります。最終決定版は確定次第アップします。)

4.現寮生の観桜会への差し入れ

11時ごろ円山公園東入口(大通西28丁目)で業者から差入れ品を受取ります。その後同窓会OBと現寮生とで、差入れ品を会場まで運び込みますので、お手伝いいただけるOBは10時30分頃まで東入口に集合ください。

5.現寮生との交流
当日は、花見会場で現寮生と一緒にジンギスカンを食しながら交流を図ります。飲み物等各自の持ち込みを歓迎します。

6.参加申込について

①申込先 岩崎正(S47入寮)現寮担当委員長

②申込方法 携帯電話;090-2057-4150
E-mail iwasaki@ktd.biglobe.ne.jp又は  iwasaki@keh.biglobe.ne.jp

 

 

平成28年円山公園観桜会(訂正)_01

以上


平成28年旧恵迪寮舎 観桜観花会について(開催案内)

[事務局からのお知らせ] [北海道支部]

恵迪寮同窓生のみなさま

こんにちは

熊本大震災により、多くの方がお亡くなりになり、また被災されています。
心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。

さて、日本の桜前線は現在東北北部を北上中とのことです。
恵迪寮同窓会では、今年も掲題の観桜観花会を実施します。

この催しも、平成19年9月の「恵迪命名百年記念事業」としてスタートし、今回で10回目となります。

「都ぞ弥生」を献歌し、旧寮舎の内外を探訪して歩く地味な催しですが、小中学生の遠足気分で実施しています。
多くの方のご参加をお待ちしております。

(恵迪寮の名入り「法被(はっぴ)」をお持ちの方がご持参ください。)

≪以下、開催案内です≫

平成28年 開拓の村旧恵迪寮舎 観桜観花会について

1 日 時  平成28年5月14日(土) 10時30分「開拓の村」旧寮舎前 集合

2 場 所  厚別区厚別町小野幌「開拓の村」 旧恵迪寮舎前 ℡011-898-2692
3 当日の予定
  ・寮舎周辺、および旧寮舎内を探訪、観桜、観花します。
  ・正面玄関前で寮歌「都ぞ弥生」を献歌します。
  ・その後、旧寮舎正面裏側の広場(中庭)にて軽昼食会を持ちます。
   (雨天の場合は、開拓の村内レストランへ移動)

4 その他
  ・雨天決行します。
  ・昼食会のお弁当、飲み物、および敷物は参加者各自が持ち寄って下さい。
  ・開拓の村への入場料は、65歳以上の方は無料です。年齢を確認できるものを
   ご持参ください。
  ・旧寮舎内を探訪しますので、念のためスリッパ等上履きをご持参下さい。
   (旧寮舎内には百年記念祭の折、参加者が残していった上履きは一定数量あるとのこと)
  ・会場設営の都合がありますので、参加される方は下記メール、又はFaxでご一報ください。
   八重樫幸一(S41入寮)宛て E-mail;kouichi-ya@sky.plala.or.jp
    Fax;011-583-4688
             
   ※雨天の場合は、開拓の村レストランで昼食をいただきます。
    そのための座席確保が必要になりますので、事前の参加お申込みをお願いしております。

(参考) 

  JR新札幌駅発(新札幌ターミナル)⇒  開拓の村着
     9:00    ⇒   9:18
     10:00    ⇒  10:18

                                      以上


新ホームページ、4月1日リニューアルオープン!

[事務局からのお知らせ]

昨秋より進めて参りましたホームページリニューアル作業が終わり、4月1日に公開される運びとなりました。トップページが一新され、内容も充実し、見易く、使い勝手もよくなりました。

これを機に会員の方々の交流の場としてフル活用し、同窓会の活性化に繋げていきましょう。

1.「談話室」は「サロン」に。

会員の様々な情報や恵迪寮が私たちに何を宿してくれたかなど活発な意見交流の場になればと思います。
2.「写真館」は「ギャラリールーム」に。

歴史的な恵迪寮関係の写真が並びます。
3.「話題あれこれ」は「トピックス」に。

会員発信のニュース、著作物、論文などを掲載。
4.「恵迪寮の文化財」は「ヒストリーライブラリー」に。

恵迪寮舎の歴史や肖像画、扁額、碑などの紹介。
5.「寮歌集」は「寮歌撰集」に。

mp3の音源を10曲収録し再生できます。
6.会員情報の登録(変更)ができます。また、恵迪グッズの購入もできます。


多磨霊園に眠る母校の先生(その1;今村成和)

[事務局からのお知らせ]

■新渡戸稲造のお墓が、東京多磨霊園にあることを知り、かねてから一度訪ねてみたいと考えておりました。
ネットで、調べてみると多磨霊園には内村鑑三、有島武郎(青山墓地より改葬)のお墓があり、さらに北大卒ではないが今村成和先生のお墓があることも分かりました。
前の3名については説明する必要はないと思います。

今村先生は以下でもご説明しますが、北大法文学部創生期の教授として北大における法学研究、教育の礎を築かれた功労者であり、日本の行政法学、経済法学、憲法学に巨大な足跡を残され、それらの分野での第一人者でありました。
また、1975(S50)年5月から、1981(S56)4月までの6年間にわたり第11代北海道大学学長を務められ、北大の発展に寄与されました。
そんなことから、前の3名と同様にご紹介させていただきます。
(恵迪寮同窓会広報常任幹事・八重樫幸一)

埋葬場所:多磨霊園 5区 2種 8側

墓石は和型「今村家之墓」。右側に墓誌があり、戒名はなく俗名と没年月

日、行年のみ。妻はミチ。

【今村成和(いまむら しげかず)】
1913.7.20(大正2)~1996.10.13(平成8)。享年83歳
韓国京城(後のソウル)出身。父は朝鮮総督府の高級官僚で樺太庁長官や仙台市長を務めた今村武志・千枝子(共に同墓)の子。母方の伯父は民藝運動を起こした思想家・宗教哲学者の柳宗悦。

京城師範学校付属の小学校と中学校を卒業した後、本土に戻り第二高等学校を経て、1937(S15)東京帝国大学法学部政治学科卒業。

1937年4月三菱商事株式会社に入社し総務部文書課法規係に配属。
1947(S22)公正取引委員会事務局事務嘱託を皮切りに、調査部第一課勤務、

1948(S23)調査部事業者団体課長、1949(S24)調査部調査第一課長を歴任。
1950(S25)北海道大学法文学部および法経学部講師、兼務で文部省内地調査員も務めた。
1952(S27)北海道大学法経学部教授となる。
1955(S30).8~1961(S36).3北海道大学評議員、
1959(S34).4~1961(S36).3北海道大学法学部長、
1960(S35)司法試験考査委員、
1961(S36)「国家補償法」により法学博士。
「行政法」の研究を主として、国家補償という概念を提案した人物として著名。

1966(S41)日本公法学会理事、
1965(S40).10~1971(S46).9北海道大学附属図書館長をつとめ、
1975(S50).5~1981(S56).4第11代北海道大学学長に就任した。
1981(S56)停年退職し北海道大学名誉教授。

その後は
1981(S56)北海学園大学法学部教授に転身。
この間、
1979(S54)~1987(S62)経済法学会理事長、
1980(S55)~1983(S58)初代日本土地法学会会長。
1985(S60)勲一等瑞宝章受章。
1991(H3)~1993(H5)初代国際経済法学会会長、
1992(H4)日本学士院会員、
同年北海道ポーランド文化協会会長を務めた。
1993(H5)北海学園大学を退職して名誉教授。

主な著書に、
1957(S32)『国家補償法』
1978(S53)『独占禁止法』
1993(H5)『独占禁止法入門』
1994(H6)『人権論考』
1995(H7)『行政法入門』などがある。

脳梗塞で倒れ入院中、「法律系図書が不足しがちなので、私の蔵書は全て北海学園大学付属図書館に寄贈してもらいたい」と遺言したとされる。
没後、北海学園大学付属図書館に「今村文庫」が配架された。

札幌市内の病院で肺炎のため逝去。享年83歳。

<門下生>
・小樽商科大学名誉教授(元学長)の法学者秋山義昭
・早稲田大学法科大学院教授の法学者畠山武道
<北海道人物・人材情報リスト>
<北海道建設人物事典など>

※本記事の大半は、インターネット「歴史が眠る多磨霊園」に依拠した。

<写真の絵解き>

①今村家の墓
②今村家の墓誌
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今村家の墓
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今村家の墓誌


多磨霊園に眠る先人達(その3;有島武郎)

[事務局からのお知らせ]

埋葬場所:多磨霊園 10区 1種 3側 10番

お墓は入り口正面に両親の有島武・幸子の墓、左に「有嶋行直家累世之墓」、その向かい(道に背を向けて)武郎と若くして亡くなった妻の安子のブロンズがはめ込まれているお墓がある。

※青山墓地より改葬

【有島武郎】
1878.3.4(明治17)-1923.6.9(大正12)。享年45歳
東京小石川(文京区)出身。父は薩摩藩士で大蔵官僚・実業家の有島武(同墓)と母の幸の長男として生まれる。

弟に洋画家・小説家の有島生馬、小説家の里見とん。 妹の愛は三笠ホテル経営者の山本直良に嫁ぐ。

4歳より横浜英和学校に通い、10歳で学習院予備科、19歳で学習院中等全科を卒業し、農学者を志して札幌農学校に入学した。
札幌農学校在籍時の校長は新渡戸稲造。内村鑑三の感化をうけて、1901(M34)札幌独立基督教会に入会する。

卒業後、軍隊を経験し、1903(M36)米国に留学しハーバード大学などで学ぶ。ホイットマンやイプセンらを愛読し、汎神論的傾向が強まる。

ヨーロッパを外遊し、1907(M40)帰国。再び予備見習士官となり、後に母校の英語講師をつとめる。

弟の生馬を通じて志賀直哉や武者小路実篤らと出会い、人道主義の立場に立ち「白樺」同人として活躍。 白樺派の中心人物として『かんかん虫』『お末の死』などの小説や評論を発表した。その間、信仰的懐疑が深まり教会や内村鑑三から離れた。

1916(T5)妻の安子の死を契機に本格的に文学に打ち込み、小説『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『迷路』『或る女』、評論『惜しみなく愛は奪う』など、下層階級の女性を描いた作品を多く発表し人気を得る。1919(T8)発表の『或る女』を絶頂期に、段々と創作力が衰え、小説『星座』を執筆途中で筆を絶つ。1922(T11)評論『宣言一つ』発表。

同1922(T11)年、ロシア革命を機に北海道狩太村の自分の農地(有島農場)を小作人に解放するなど社会主義思想に傾くが上手くいかず、文芸上・思想上の行きづまりも重なり、また翌1923(T12)年、婦人公論記者の人妻の波多野秋子との恋愛とその夫からの脅迫もあり、同年6月9日二人は軽井沢の浄月荘の別荘で情死。享年45歳。

遺書には「森厳だとか悲壮だとか言えば言える光景だが実際私達は、戯れつつある二人の小児に等しい。 愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思はなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」と記され、その通り、死体は7月7日に二人とも面相も分らないほど腐乱して発見された <コンサイス日本人名事典><日本キリスト教総覧>
【有島安子(ありしま やすこ)】

1888(明治21)~1916.8.2(大正5)享年27歳

有島武郎夫人。陸軍大将で男爵の神尾光臣の次女。

1909(M42)3月に有島武郎と結婚した。この時、武郎が32歳、安子22歳であった。1911(M44)長男の行光(森雅之)が誕生。1912(T1)次男の敏行が誕生した。
翌年、安子は三男誕生後、胸を病み健康にすぐれず、1914(T3)肺結核を発病したこともあって、療養のために移住していた札幌から一家上京した。
安子は鎌倉に転地し、平塚海岸杏雲堂病院特別病棟で療養した。武郎は鉄道を乗り継いで湘南に出かけ、妻を見舞って慰めと励ましを与えていたことが、日記・感想・書簡をはじめ諸作品に書かれている。 特に日記の中で病棟をスケッチして「悲劇の舞台」の文字を添えている。
1916(T5)8月2日武郎に長い遺書を残して没した。 そこには夫の作家として大成する願いが綴られていた。遺言により、子供たちは安子の床に立ち合わせなかった。

没後、武郎は安子の遺稿集『松虫』を描いた。有島家と親戚筋であり、武郎とも親交があった与謝野晶子は『故有島安子夫人其他』という作品を発表している。 安子の父である神尾光臣は安子没年と同年に没した。なお神尾家代々の墓は雑司が谷霊園1種16号2側にある。
【安子没後の有島武郎】

1916.8.2(T5)妻を亡くした後、『カインの末裔』『或る女』などを書き上げ、文壇の頂点に昇った。 愛するがゆえの苦悩と救済を求める心の彷徨を描く作家の姿、幼い三人の子供を抱えながらも独身主義を貫く潔癖さに、熱狂的な女性ファンも多かった。 しかし、「純粋にして潔癖な愛」というものの有島流の解釈に、武郎自身が息苦しさを感じていた。

1922(T11)冬、婦人公論編集者の波多野秋子が初めて武郎を訪問した。 秋子は編集者の才覚よりも、その美貌によって作家たちの覚えめでたく、ときの大物作家、難物作家たちを次々と執筆を承諾させていた。

だが、この冬の武郎初訪問では原稿依頼を断られている。 武郎は「美貌の婦人記者が僕を誘惑にくるんだよ。滑稽じゃないか」と漏らしていた。

1923(T12)初頭。何度も訪問する秋子の念願が叶い武郎の原稿を受け取った。秋子はその後も武郎邸を足繁く訪れた。 秋子は武郎が主宰する雑誌の編集を手伝いながら、自身に子供のない人妻は三人の子供たちを何かと世話をした。 こうして武郎と秋子の関係は、作家と編集者というには、あまりに親密なものとなっていく。

二人の関係は、やがて秋子の夫であり実業家の波多野春房の知るところとなる。 そもそも、華族出身の妻を離籍して秋子を迎え入れた後、彼女を青山学院に通わせたのも、職業婦人としての自立を助けたのも、すべてはこの十五歳上の夫の力だった。 ことの顛末を知った春房は、6月6日武郎は秋子と共に波多野の事務所に呼び出され、武郎に金銭での取り引きを持ちかける。

その内容は、「それほどお前の気に入った秋子なら、慰斗をつけて進上しないものでもないが、併し俺は商人だ。 商売人といふ者は、品物を無償で提供しやアしない、秋子は、既に十一年も妻として扶養して来たのだし、それ以前の三四年も俺の手元に引き取って教育してゐたのだから、それ相当の代金を要求するつもりだ。俺ぁこんな恥曝しをしては、もう会社にも勤めてゐられない。 これ、この通り辞表も書いで来てゐるんだ」と言い、「家庭内に言うに忍びざる事件起り」という文言がある和洋二通の辞表を出して見せた。

更に「秋子は、今すぐにでも離籍してやるが、併し、それでいい気になって、おいそれとお前たちが夫婦になるやうなまねは断然許さん。 少くも一年か一年半たってからでなくっちア、第一世間がうるさくって困る。それから、金は、一度だけ支払えばそれですんだと思うな。 俺は、吝嗇ン坊(しわんぼう)のお前を、一生金で苦しめてやるつもりなんだから。それは今から覚悟しておけ!」と脅迫した。

当時、夫ある身の女の不貞は姦通(かんつう)の罪に問われ、男女双方に大きな制裁を与えた。 春房が訴えれば二人は監獄行きであり、これが世間の明るみにでれば、クリスチャンとして貞節と潔癖を重んじてきた武郎の作家生命が、侮蔑と嘲笑にまみれることは見えていた。

しかし、武郎は、春房の報復のような恐喝に対して、「自分が命がけで愛している女を、僕は金に換算する屈辱を忍び得ない」と金銭で愛を汚すことを拒否した。 要求を突っぱねられた春房は、警察に突き出すという脅迫をするが、武郎は「よろしい、行こう」と動じず、この予定外の態度に春房がたじろぎ、「どうしてもお前が支払いを拒むんなら、一人一人お前の兄弟たちを呼びつけて、お前の業晒しをしても、きっと金は取ってみせるからさう思え!」と罵り、食堂へ降りて行ったという。

この一部始終を、その日に入院中であった足助素一を訪ねて打ち明けている。足助はお金を払い相手の気持ちを落ち着かせた方がいいと考え、翌日6月8日午前、病院を抜け出し有島邸に訪れ武郎と秋子に対して金の解決を進めるも、武郎は愛する女を金で換算することは出来ないの一点張りで平行線であった。 更に情死をすることの決意も語り、それを足助は説得するも、何の成果を得られず、引き上げるしかなかった。

秋子と出逢って7ヶ月後、二人は6月8日午後、母に挨拶をし、誰にも行き先を伝えずに軽井沢へと向かった。 その翌朝未明にはもう、軽井沢にある武郎の山荘の愛宕山の別荘・浄月庵の応接間で2人は首を吊った。 亡骸が別荘の管理人に発見されたのは1ヶ月後の7月7日であった。 梅雨時で2人の身体は身元が分からぬほど腐乱し朽ち果て、遺書の存在でようやく分かっ

たという。 有島武郎は享年45歳、波多野秋子は享年32歳。

当時の報道は、心中という醜聞に触れて、波多野秋子を知る人々は誰もがその美貌に言及している。 美しい魔性の女が、人妻であるにも関わらず、亡き妻への愛を貫く偉大な作家を籠絡(ろうらく)した・・・。 大半がそのような視点に立っている。不貞の許さぬ時代であり、職業婦人の風当たりが強い時代にあって、その風を真っ向から受け、武郎の死の責任を秋子が受けてつるし上げられた。

後に加藤シヅエらが、秋子の自分宛の遺書を記者会見で公表し、秋子の気持ちを代弁し擁護するなど、事実が少しずつ明らかになってきたが、世に認識されるまえには時間がかかった。

このような経緯があったためか、多磨霊園の有島家の墓所内にある武郎のレリーフの横には、潔癖な愛と象徴された安子のレリーフが掲げられ、隣り合っている。 なお、武郎の情死によって両親を亡くした長男の森雅之はこの時、12歳であった。 <「安城家の兄弟」里見とん><日本史人物「女たちの物語」など>

《有島武郎の名言。5つだけ掲示する》

・前途は遠い。そして暗い。
然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ。

・容易な道を選んではならぬ。
近道を抜けてはならぬ。

・愛の表現は惜しみなく与えるだろう。 しかし、愛の本体は惜しみなく奪

うものだ。

・ 己を主とする以上、他人にも同じ心持ちのあるのに注意しよう。

・僕は一生が大事だと思いますよ。来世があろうが、過去世があろうが、こ

の一生が大事だと思いますよ。
※本記事の大半は、インターネット「歴史が眠る多磨霊園」に依拠した。

<写真の絵解き>

①有島武郎・妻の安子のブロンズ
②武郎の両親・有島武・幸子の墓
③有嶋行直家累世之墓

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有島武郎・妻の安子のブロンズ

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両親の有島武・幸子の墓

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有嶋幸直家累世之墓