[事務局からのお知らせ]
■新渡戸稲造のお墓が、東京多磨霊園にあることを知り、かねてから一度訪ねてみたいと考えておりました。
ネットで、調べてみると多磨霊園には内村鑑三、有島武郎(青山墓地より改葬)のお墓があり、さらに北大卒ではないが今村成和先生のお墓があることも分かりました。
前の3名については説明する必要はないと思います。
今村先生は以下でもご説明しますが、北大法文学部創生期の教授として北大における法学研究、教育の礎を築かれた功労者であり、日本の行政法学、経済法学、憲法学に巨大な足跡を残され、それらの分野での第一人者でありました。
また、1975(S50)年5月から、1981(S56)4月までの6年間にわたり第11代北海道大学学長を務められ、北大の発展に寄与されました。
そんなことから、前の3名と同様にご紹介させていただきます。
(恵迪寮同窓会広報常任幹事・八重樫幸一)
埋葬場所:多磨霊園 5区 2種 8側
墓石は和型「今村家之墓」。右側に墓誌があり、戒名はなく俗名と没年月
日、行年のみ。妻はミチ。
【今村成和(いまむら しげかず)】
1913.7.20(大正2)~1996.10.13(平成8)。享年83歳
韓国京城(後のソウル)出身。父は朝鮮総督府の高級官僚で樺太庁長官や仙台市長を務めた今村武志・千枝子(共に同墓)の子。母方の伯父は民藝運動を起こした思想家・宗教哲学者の柳宗悦。
京城師範学校付属の小学校と中学校を卒業した後、本土に戻り第二高等学校を経て、1937(S15)東京帝国大学法学部政治学科卒業。
1937年4月三菱商事株式会社に入社し総務部文書課法規係に配属。
1947(S22)公正取引委員会事務局事務嘱託を皮切りに、調査部第一課勤務、
1948(S23)調査部事業者団体課長、1949(S24)調査部調査第一課長を歴任。
1950(S25)北海道大学法文学部および法経学部講師、兼務で文部省内地調査員も務めた。
1952(S27)北海道大学法経学部教授となる。
1955(S30).8~1961(S36).3北海道大学評議員、
1959(S34).4~1961(S36).3北海道大学法学部長、
1960(S35)司法試験考査委員、
1961(S36)「国家補償法」により法学博士。
「行政法」の研究を主として、国家補償という概念を提案した人物として著名。
1966(S41)日本公法学会理事、
1965(S40).10~1971(S46).9北海道大学附属図書館長をつとめ、
1975(S50).5~1981(S56).4第11代北海道大学学長に就任した。
1981(S56)停年退職し北海道大学名誉教授。
その後は
1981(S56)北海学園大学法学部教授に転身。
この間、
1979(S54)~1987(S62)経済法学会理事長、
1980(S55)~1983(S58)初代日本土地法学会会長。
1985(S60)勲一等瑞宝章受章。
1991(H3)~1993(H5)初代国際経済法学会会長、
1992(H4)日本学士院会員、
同年北海道ポーランド文化協会会長を務めた。
1993(H5)北海学園大学を退職して名誉教授。
主な著書に、
1957(S32)『国家補償法』
1978(S53)『独占禁止法』
1993(H5)『独占禁止法入門』
1994(H6)『人権論考』
1995(H7)『行政法入門』などがある。
脳梗塞で倒れ入院中、「法律系図書が不足しがちなので、私の蔵書は全て北海学園大学付属図書館に寄贈してもらいたい」と遺言したとされる。
没後、北海学園大学付属図書館に「今村文庫」が配架された。
札幌市内の病院で肺炎のため逝去。享年83歳。
<門下生>
・小樽商科大学名誉教授(元学長)の法学者秋山義昭
・早稲田大学法科大学院教授の法学者畠山武道
<北海道人物・人材情報リスト>
<北海道建設人物事典など>
※本記事の大半は、インターネット「歴史が眠る多磨霊園」に依拠した。
<写真の絵解き>
①今村家の墓
②今村家の墓誌
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今村家の墓
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今村家の墓誌
[事務局からのお知らせ]
埋葬場所:多磨霊園 10区 1種 3側 10番
お墓は入り口正面に両親の有島武・幸子の墓、左に「有嶋行直家累世之墓」、その向かい(道に背を向けて)武郎と若くして亡くなった妻の安子のブロンズがはめ込まれているお墓がある。
※青山墓地より改葬
【有島武郎】
1878.3.4(明治17)-1923.6.9(大正12)。享年45歳
東京小石川(文京区)出身。父は薩摩藩士で大蔵官僚・実業家の有島武(同墓)と母の幸の長男として生まれる。
弟に洋画家・小説家の有島生馬、小説家の里見とん。 妹の愛は三笠ホテル経営者の山本直良に嫁ぐ。
4歳より横浜英和学校に通い、10歳で学習院予備科、19歳で学習院中等全科を卒業し、農学者を志して札幌農学校に入学した。
札幌農学校在籍時の校長は新渡戸稲造。内村鑑三の感化をうけて、1901(M34)札幌独立基督教会に入会する。
卒業後、軍隊を経験し、1903(M36)米国に留学しハーバード大学などで学ぶ。ホイットマンやイプセンらを愛読し、汎神論的傾向が強まる。
ヨーロッパを外遊し、1907(M40)帰国。再び予備見習士官となり、後に母校の英語講師をつとめる。
弟の生馬を通じて志賀直哉や武者小路実篤らと出会い、人道主義の立場に立ち「白樺」同人として活躍。 白樺派の中心人物として『かんかん虫』『お末の死』などの小説や評論を発表した。その間、信仰的懐疑が深まり教会や内村鑑三から離れた。
1916(T5)妻の安子の死を契機に本格的に文学に打ち込み、小説『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『迷路』『或る女』、評論『惜しみなく愛は奪う』など、下層階級の女性を描いた作品を多く発表し人気を得る。1919(T8)発表の『或る女』を絶頂期に、段々と創作力が衰え、小説『星座』を執筆途中で筆を絶つ。1922(T11)評論『宣言一つ』発表。
同1922(T11)年、ロシア革命を機に北海道狩太村の自分の農地(有島農場)を小作人に解放するなど社会主義思想に傾くが上手くいかず、文芸上・思想上の行きづまりも重なり、また翌1923(T12)年、婦人公論記者の人妻の波多野秋子との恋愛とその夫からの脅迫もあり、同年6月9日二人は軽井沢の浄月荘の別荘で情死。享年45歳。
遺書には「森厳だとか悲壮だとか言えば言える光景だが実際私達は、戯れつつある二人の小児に等しい。 愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思はなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」と記され、その通り、死体は7月7日に二人とも面相も分らないほど腐乱して発見された <コンサイス日本人名事典><日本キリスト教総覧>
【有島安子(ありしま やすこ)】
1888(明治21)~1916.8.2(大正5)享年27歳
有島武郎夫人。陸軍大将で男爵の神尾光臣の次女。
1909(M42)3月に有島武郎と結婚した。この時、武郎が32歳、安子22歳であった。1911(M44)長男の行光(森雅之)が誕生。1912(T1)次男の敏行が誕生した。
翌年、安子は三男誕生後、胸を病み健康にすぐれず、1914(T3)肺結核を発病したこともあって、療養のために移住していた札幌から一家上京した。
安子は鎌倉に転地し、平塚海岸杏雲堂病院特別病棟で療養した。武郎は鉄道を乗り継いで湘南に出かけ、妻を見舞って慰めと励ましを与えていたことが、日記・感想・書簡をはじめ諸作品に書かれている。 特に日記の中で病棟をスケッチして「悲劇の舞台」の文字を添えている。
1916(T5)8月2日武郎に長い遺書を残して没した。 そこには夫の作家として大成する願いが綴られていた。遺言により、子供たちは安子の床に立ち合わせなかった。
没後、武郎は安子の遺稿集『松虫』を描いた。有島家と親戚筋であり、武郎とも親交があった与謝野晶子は『故有島安子夫人其他』という作品を発表している。 安子の父である神尾光臣は安子没年と同年に没した。なお神尾家代々の墓は雑司が谷霊園1種16号2側にある。
【安子没後の有島武郎】
1916.8.2(T5)妻を亡くした後、『カインの末裔』『或る女』などを書き上げ、文壇の頂点に昇った。 愛するがゆえの苦悩と救済を求める心の彷徨を描く作家の姿、幼い三人の子供を抱えながらも独身主義を貫く潔癖さに、熱狂的な女性ファンも多かった。 しかし、「純粋にして潔癖な愛」というものの有島流の解釈に、武郎自身が息苦しさを感じていた。
1922(T11)冬、婦人公論編集者の波多野秋子が初めて武郎を訪問した。 秋子は編集者の才覚よりも、その美貌によって作家たちの覚えめでたく、ときの大物作家、難物作家たちを次々と執筆を承諾させていた。
だが、この冬の武郎初訪問では原稿依頼を断られている。 武郎は「美貌の婦人記者が僕を誘惑にくるんだよ。滑稽じゃないか」と漏らしていた。
1923(T12)初頭。何度も訪問する秋子の念願が叶い武郎の原稿を受け取った。秋子はその後も武郎邸を足繁く訪れた。 秋子は武郎が主宰する雑誌の編集を手伝いながら、自身に子供のない人妻は三人の子供たちを何かと世話をした。 こうして武郎と秋子の関係は、作家と編集者というには、あまりに親密なものとなっていく。
二人の関係は、やがて秋子の夫であり実業家の波多野春房の知るところとなる。 そもそも、華族出身の妻を離籍して秋子を迎え入れた後、彼女を青山学院に通わせたのも、職業婦人としての自立を助けたのも、すべてはこの十五歳上の夫の力だった。 ことの顛末を知った春房は、6月6日武郎は秋子と共に波多野の事務所に呼び出され、武郎に金銭での取り引きを持ちかける。
その内容は、「それほどお前の気に入った秋子なら、慰斗をつけて進上しないものでもないが、併し俺は商人だ。 商売人といふ者は、品物を無償で提供しやアしない、秋子は、既に十一年も妻として扶養して来たのだし、それ以前の三四年も俺の手元に引き取って教育してゐたのだから、それ相当の代金を要求するつもりだ。俺ぁこんな恥曝しをしては、もう会社にも勤めてゐられない。 これ、この通り辞表も書いで来てゐるんだ」と言い、「家庭内に言うに忍びざる事件起り」という文言がある和洋二通の辞表を出して見せた。
更に「秋子は、今すぐにでも離籍してやるが、併し、それでいい気になって、おいそれとお前たちが夫婦になるやうなまねは断然許さん。 少くも一年か一年半たってからでなくっちア、第一世間がうるさくって困る。それから、金は、一度だけ支払えばそれですんだと思うな。 俺は、吝嗇ン坊(しわんぼう)のお前を、一生金で苦しめてやるつもりなんだから。それは今から覚悟しておけ!」と脅迫した。
当時、夫ある身の女の不貞は姦通(かんつう)の罪に問われ、男女双方に大きな制裁を与えた。 春房が訴えれば二人は監獄行きであり、これが世間の明るみにでれば、クリスチャンとして貞節と潔癖を重んじてきた武郎の作家生命が、侮蔑と嘲笑にまみれることは見えていた。
しかし、武郎は、春房の報復のような恐喝に対して、「自分が命がけで愛している女を、僕は金に換算する屈辱を忍び得ない」と金銭で愛を汚すことを拒否した。 要求を突っぱねられた春房は、警察に突き出すという脅迫をするが、武郎は「よろしい、行こう」と動じず、この予定外の態度に春房がたじろぎ、「どうしてもお前が支払いを拒むんなら、一人一人お前の兄弟たちを呼びつけて、お前の業晒しをしても、きっと金は取ってみせるからさう思え!」と罵り、食堂へ降りて行ったという。
この一部始終を、その日に入院中であった足助素一を訪ねて打ち明けている。足助はお金を払い相手の気持ちを落ち着かせた方がいいと考え、翌日6月8日午前、病院を抜け出し有島邸に訪れ武郎と秋子に対して金の解決を進めるも、武郎は愛する女を金で換算することは出来ないの一点張りで平行線であった。 更に情死をすることの決意も語り、それを足助は説得するも、何の成果を得られず、引き上げるしかなかった。
秋子と出逢って7ヶ月後、二人は6月8日午後、母に挨拶をし、誰にも行き先を伝えずに軽井沢へと向かった。 その翌朝未明にはもう、軽井沢にある武郎の山荘の愛宕山の別荘・浄月庵の応接間で2人は首を吊った。 亡骸が別荘の管理人に発見されたのは1ヶ月後の7月7日であった。 梅雨時で2人の身体は身元が分からぬほど腐乱し朽ち果て、遺書の存在でようやく分かっ
たという。 有島武郎は享年45歳、波多野秋子は享年32歳。
当時の報道は、心中という醜聞に触れて、波多野秋子を知る人々は誰もがその美貌に言及している。 美しい魔性の女が、人妻であるにも関わらず、亡き妻への愛を貫く偉大な作家を籠絡(ろうらく)した・・・。 大半がそのような視点に立っている。不貞の許さぬ時代であり、職業婦人の風当たりが強い時代にあって、その風を真っ向から受け、武郎の死の責任を秋子が受けてつるし上げられた。
後に加藤シヅエらが、秋子の自分宛の遺書を記者会見で公表し、秋子の気持ちを代弁し擁護するなど、事実が少しずつ明らかになってきたが、世に認識されるまえには時間がかかった。
このような経緯があったためか、多磨霊園の有島家の墓所内にある武郎のレリーフの横には、潔癖な愛と象徴された安子のレリーフが掲げられ、隣り合っている。 なお、武郎の情死によって両親を亡くした長男の森雅之はこの時、12歳であった。 <「安城家の兄弟」里見とん><日本史人物「女たちの物語」など>
《有島武郎の名言。5つだけ掲示する》
・前途は遠い。そして暗い。
然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ。
・容易な道を選んではならぬ。
近道を抜けてはならぬ。
・愛の表現は惜しみなく与えるだろう。 しかし、愛の本体は惜しみなく奪
うものだ。
・ 己を主とする以上、他人にも同じ心持ちのあるのに注意しよう。
・僕は一生が大事だと思いますよ。来世があろうが、過去世があろうが、こ
の一生が大事だと思いますよ。
※本記事の大半は、インターネット「歴史が眠る多磨霊園」に依拠した。
<写真の絵解き>
①有島武郎・妻の安子のブロンズ
②武郎の両親・有島武・幸子の墓
③有嶋行直家累世之墓
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有島武郎・妻の安子のブロンズ
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両親の有島武・幸子の墓
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有嶋幸直家累世之墓
[事務局からのお知らせ]
埋葬場所:多磨霊園 7区 1種 5側 11番
■新渡戸家の墓所は正面「新渡戸稲造之墓」。右に稲造の長男で早死した長男「新渡戸遠益之墓」。左に墓誌がある。
新渡戸彰敏は孫と刻み、墓誌には新渡戸誠(彰敏)と刻む。墓誌は稲造、萬里子、遠益、こと、誠の順に刻む。
墓誌の裏面は上に「正三位勲一等新渡戸先生墓誌」というタイトルで新渡戸稲造の略歴が刻むプレートがはめられている。
下にはその経緯が刻み、それによると、昭和60年10月3日に兄の新渡戸誠(彰敏)の納骨に当たり、祖父の新渡戸稲造の墓より出土したとのことである。昭和8年12月2日の稲造の遺骨と共に納められたとある。これを泥中に返すのではなく、ここに清拭して墓誌碑の裏面に掲げ、大方の清覧に供せんとすと刻む。これは新渡戸誠(彰敏)の妹の加藤武子の言葉として刻む。
*墓所添いの角地に新渡戸稲造像が建つ。
■<新渡戸家の家族>
稲造の養子の孝夫は稲造の姉の喜佐(1857-1943)の三男。旧姓は河野。ジャパンタイムズ主筆・編集長を務めた。
養女のこと は稲造の姉の峯(1845-1916)の子の磯の長女。
孝夫とこと の間に長男の誠(彰敏)、武子(1920-)がいる。武子は加藤英倫に嫁いだ。加藤英倫は新渡戸稲造全集の解説や訳などを担当した。
本人;新渡戸稲造(新渡戸家第44代当主)
妻;新渡戸萬里子
長男;遠益
養子;孝夫(よしお、姉・喜佐の次男)
養女;こと子(姉・みねの孫)
孫;彰敏(本名は誠、新渡戸家第45代当主)、武子
【新渡戸稲造】
1862.9.1(文久2.8.8)-1933(昭和8).10.15。満71歳没
盛岡藩勘定奉行新渡戸常訓の子。1877(M10)札幌農学校第2期生として内村鑑三らとともにキリスト者となる。
1881(M14)卒業後、北海道開拓使に就職。1883(M16)東大文学部選科生で入学したが中退し、1884(M17)ジョンズ-ホプキンズ大に留学。
1887(M20)札幌農学校助教(今の准教授)となり、ドイツ(ボン大学、ベルリン大学、ハレ大学)へ公費留学し、法学・農業経済を研究。
1891(M24)メアリー・エルキントンと結婚し帰国。 札幌農学校の教授となる。1892(M25)1月長男・新渡戸遠益(トーマス)誕生するもM25.1.27に生後8日で亡くなる。
1901(M34)台湾総督府技師、1903(M36)京大教授をへて、1906~1913(M39~T2)一高校長として学生に深い人格的影響を与えた。
1913(T2)東大の専任の教授となり、植民政策講座を担任。1918(T7)東京女子大初代学長となる。
また1920~1926(T9~S1)国際連盟事務次長として活躍。1921(T10)のオーランド諸島の領土紛争を解決した「新渡戸裁定」は有名。
1933(S8)カナダの太平洋調査会の国際会議に出席中ヴィクトリアにて客死した。
クエーカー教徒として、国際平和を主張し続け、1895(M28)『友徒の特
色』を著し、戦争に反対して国際紛争を平和的仲裁によって解決すべきであると解き、 また太平洋の橋になるという青年時代に抱いた希望を実践し、その生涯を国際平和のために献げた。
主著は『農業本論』、伝統的な日本精神を紹介し他国に共感を得た『武士道』などがある。 <コンサイス日本人名事典><学習人名辞典>
【新渡戸萬里子】
1857.8.14(安政4)-1938(昭和13).9.23 享年81歳
旧姓メアリー・パターソン・エルキントン。新渡戸稲造(同墓)の妻。アメリカのフィラデルフィア州のフレンド派の家に生まれる。
1886(M19)フィラデルフィアの富豪モリス家で新渡戸稲造と出会い、1891(M24)結婚。翌月に来日し札幌で暮らす。
翌年、長男誕生、稲造の親友トーマス・エジソンから名前をとり遠益(トーマス)と名づけたが、一週間あまりで死亡(同墓)。萬里子は体調を崩して一時アメリカへ帰国したが、再び来日。
私財を投じて貧しい少年たちのために遠友夜学校を設立して第二代校長となる。また日本人道会を設立し、会長に就任。動物愛護運動の先駆的な役割を果たした。
1938(S13)心臓病のため軽井沢にて死去。享年81歳。 <日本女性人名辞典><近代日本の先駆者><中村祐二様より情報のご提供>
《新渡戸稲造の名言。7点だけ掲示する》
・武士道精神は損得勘定をとらない.むしろ足らざることを誇りにする.
・富の道が名誉の道ではない.
・武士道の究極の理想は平和である.
・学べどもなお学べども学べども学び足りぬは学びなりけり.
・籠城主義もいいが、それは手段であって目的ではない.寄宿舎の窓を開いてもっと世の中に接し、社会的観念を養成して実社会に活動できる素地をつくれ.
・自分が生まれてきたときより死に至るまで、周囲の人が少しなりともよくなれば、それで生まれた甲斐があるというものだ.
・国民倫理体系は忠君愛国を強制したが、これまでその目標に達したことはなかった。こんな体系は狭い基礎に立てられているから、人間の魂には狭すぎる。もちろん失敗するにきまっている。
その名に直する宗教は、全人を認めなければならぬ。そして国家は、人間の全体を包括しはしない。人間は国家より大きい。人間は自分の内に、この世の国や、国家の一切の主張を超越するものを待っている。人間の無限の魂を、国家の限られた枠組の中に閉じ込めることはできない
《新渡戸稲造を手短に知ることができる書籍》
書籍名;『新渡戸稲造ものがたり』ー真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬけるー
著者;柴崎 由紀
発行所;㈱銀の鈴社
価格;定価1500円+税
※本記事の大半は、インターネット「歴史が眠る多磨霊園」に依拠した。
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NITOBE TOMASUの墓
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新渡戸家の墓誌
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新渡戸家の墓所
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墓所沿い角地に建つ新渡戸稲造の像
[事務局からのお知らせ]
(本来談話室に掲載すべきだが、容量の関係で「事務局からのお知らせ」を使用します)
埋葬場所:多磨霊園 8区 1種 16側 29番
内村家の墓所には日本で最初の洋型墓石と言われる墓石が三基建つ。 右から内村家、真ん中が精神医学者・プロ野球コミッショナーなどを務めた長男内村祐之(北海道帝国大学教授、東京帝国大学教授を歴任)、左が鑑三と静子である。
鑑三・静子の墓石には
I for Japan,
Japan for the World,
The World for Christ,
And All for God.
と刻む。
なお、その左隣りには長女ルツ子の墓誌碑と墓誌が建つ。
【内村鑑三】
1861.3.23(万延2.2.13)-1930(昭和5).3.28。享年69歳
明治・大正期のキリスト教の代表的指導者。新渡戸稲造らと共に札幌農学校に学びクリスチャンとなる。米国留学後、伝道生活に入り「余は如何にして基督信徒になりし乎」などを著わす。
また足尾銅山事件で財閥を攻撃し、日露戦争には反戦論を唱えた。
特定の教派・神学を持たず、聖書のみにもとづく信仰「無教会主義」を唱え、学問的聖書研究と武士道的エートスと深い人格的結合によって、強烈な福音主義的思想を形成し影響を与えた。 <コンサイス日本人名事典>
【内村静子(うちむら しずこ)】
1874(明治7).5.20-1945(昭和20).2.8
内村鑑三の後妻。旧姓岡田。
鑑三は農商務省時代の1884(M17)浅田タケと結婚したが約半年で離婚。
渡米して帰国後、第一高等中学校などで教鞭をとり、横浜加寿子と再婚した。 しかし1891第一高等中学校在任中に不敬事件を起し退職、加寿子は貧乏と夫の看病に疲れ死没した。
その翌年、「築山もと」なる女性と三度目(?)の結婚をしたらしいが、これについては正確な事実は伝わっていない。
1892(M25)静子(シズ)と結婚。1894長女ルツ子(同墓)、1897長男祐之(同墓)を出産。 1912ルツ子は満17歳の若さで病死した。ルツ子の死は鑑三の思想にもかなりの影響を与えた。この深刻な出来事は来世の確信に導き、やがて起こった第一次大戦により、1918(T7)から、 キリストの再臨を待望する再臨運動を展開のきっかけを生んだ。鑑三の生涯で最も充実した時期を支えたのが静子である。 <女性人名事典など>
《内村鑑三の名言。5点だけ掲示する》
・人生にとって一番の幸福とは何か?
それは自分の天職を知ってこれを実行に移すことである。
・喜びの声を発すれば喜びの人となり、悲しみの声を発すれば悲しみの人となる。
・一日は貴い一生である。
これを空費してはならない。
・もし全世界を手中に収めようとも、そのために自分の魂を失ってしまえば一体何の意味があろう。
人生の目的は金銭を得ることではない。品性を完成することである。
・誠実から得た信用は最大の財産となる。
<本記事の大半は、インターネット「歴史が眠る多磨霊園」に依拠した。>
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内村鑑三・静子の墓
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内村鑑三・静子の墓の本体部分
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長男・内村祐之の墓
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長女・ルツ子の墓誌碑
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内村家の墓
[事務局からのお知らせ]
(本来は「談話室」に掲載すべきですが、容量の関係で「事務局からのお知らせ」に掲載します。)
恵迪寮同窓会東日本支部支部会計監査・関口光雄君(S39)からの2016年1月27日付けのメールにより、佐川光晴君(S58)が今月(2月)9日に双葉社から文庫『山あり愛あり』を刊行することを知りました。
そこで、この作品に込めた思いをお寄せいただきたい旨お願いしたところ、このたび佐川光晴君から「北の大地に憧れし男たちの物語」というテーマでしたためた《思い》が送られてきましたのでご披露します。
次の青字をクリックしてください。
北の大地に憧れし男たちの物語
なお、本は双葉文庫で、定価620円(税込)です。
とても読み応えがあり、多くの方に手にとっていただきたい作品です。

文庫『山あり愛あり』書影