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多磨霊園に眠る先人達(その1;内村鑑三)

[事務局からのお知らせ]

(本来談話室に掲載すべきだが、容量の関係で「事務局からのお知らせ」を使用します)

埋葬場所:多磨霊園 8区 1種 16側 29番

内村家の墓所には日本で最初の洋型墓石と言われる墓石が三基建つ。 右から内村家、真ん中が精神医学者・プロ野球コミッショナーなどを務めた長男内村祐之(北海道帝国大学教授、東京帝国大学教授を歴任)、左が鑑三と静子である。

鑑三・静子の墓石には
I for Japan,
Japan for the World,
The World for Christ,
And All for God.
と刻む。

なお、その左隣りには長女ルツ子の墓誌碑と墓誌が建つ。

【内村鑑三】
1861.3.23(万延2.2.13)-1930(昭和5).3.28。享年69歳

明治・大正期のキリスト教の代表的指導者。新渡戸稲造らと共に札幌農学校に学びクリスチャンとなる。米国留学後、伝道生活に入り「余は如何にして基督信徒になりし乎」などを著わす。
また足尾銅山事件で財閥を攻撃し、日露戦争には反戦論を唱えた。
特定の教派・神学を持たず、聖書のみにもとづく信仰「無教会主義」を唱え、学問的聖書研究と武士道的エートスと深い人格的結合によって、強烈な福音主義的思想を形成し影響を与えた。 <コンサイス日本人名事典>

【内村静子(うちむら しずこ)】
1874(明治7).5.20-1945(昭和20).2.8

内村鑑三の後妻。旧姓岡田。

鑑三は農商務省時代の1884(M17)浅田タケと結婚したが約半年で離婚。
渡米して帰国後、第一高等中学校などで教鞭をとり、横浜加寿子と再婚した。 しかし1891第一高等中学校在任中に不敬事件を起し退職、加寿子は貧乏と夫の看病に疲れ死没した。
その翌年、「築山もと」なる女性と三度目(?)の結婚をしたらしいが、これについては正確な事実は伝わっていない。
1892(M25)静子(シズ)と結婚。1894長女ルツ子(同墓)、1897長男祐之(同墓)を出産。 1912ルツ子は満17歳の若さで病死した。ルツ子の死は鑑三の思想にもかなりの影響を与えた。この深刻な出来事は来世の確信に導き、やがて起こった第一次大戦により、1918(T7)から、 キリストの再臨を待望する再臨運動を展開のきっかけを生んだ。鑑三の生涯で最も充実した時期を支えたのが静子である。 <女性人名事典など>
《内村鑑三の名言。5点だけ掲示する》
・人生にとって一番の幸福とは何か?
それは自分の天職を知ってこれを実行に移すことである。

・喜びの声を発すれば喜びの人となり、悲しみの声を発すれば悲しみの人となる。

・一日は貴い一生である。
これを空費してはならない。

・もし全世界を手中に収めようとも、そのために自分の魂を失ってしまえば一体何の意味があろう。

人生の目的は金銭を得ることではない。品性を完成することである。

・誠実から得た信用は最大の財産となる。
<本記事の大半は、インターネット「歴史が眠る多磨霊園」に依拠した。>
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内村鑑三・静子の墓

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内村鑑三・静子の墓の本体部分

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長男・内村祐之の墓

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長女・ルツ子の墓誌碑

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内村家の墓