恵迪寮の歴史(3)

【3】 初代恵迪寮舎(1905-1930年、札幌市北10条西6丁目)

恵迪寮と命名 キャンパスの移転に合わせ、札幌農学校寄宿舎も現在の人文社会科学総合研究教育棟位置に移転したが、日露戦争のために建築が遅れ、やっと1905(明治38)年4月8日に右写真のように中央の玄関棟と右の南寮と左の北寮が新築された。さらに同年6月24日には飯田雄太郎が油絵で描いた北大初の「クラーク博士肖像画」が引き渡され、それから1983年の第2代寮舎の閉寮まで食堂に掲げられたため、1万人以上の寮生の日常生活を眺め続けた心に残る肖像画となった。

クラーク博士肖像画「恵迪寮」命名 :札幌農学校は、1907(明治40)年6月に東北帝国大学農科大学に昇格した。その2ヶ月前の4月8日に開催した寄宿舎の記念祭(舎生大会)は、大学昇格を期して寄宿舎名を「恵迪寮」とする決議をした。

恵迪の用字
恵迪の語源
恵迪寮歌の制定

恵迪寮図案

学部新設と寮舎の増築 :1918(大正7)年に医学部が設置されて「北海道帝国大学」となり、帝大農科大学は農学部となる。この学生定員増に合わせて恵迪寮に南棟を新築し、旧南寮を中寮に変えた。1921年 学年開始期を9月から4月1日に変更した。翌1922年恵迪寮を予科生のみの寮とした。1924年に工学部が設置された。しかし、その前年9月に関東大震災が発生して日本経済が急激に停滞し、続いて予定された理学部新設は遅れざるを得なかった。そこで附属農場の七重にある第7農場を売却して売却益を建築費に加算し、1929年学内初のコンコンクリート作りの理学部が設置された。この学部増設に合せて恵迪寮に新寮が増設され、南・中・北寮と合せて4棟68室になった。恵迪寮は、延齢草を図案化して寮生章を制定した。

寮舎の閉鎖と移転 :1931(昭和6)年理学部前の初代恵迪寮を北17条に移設し、その空き地に法文学部の新設を企画して予算申請をした(写真は寮舎を解体撤去後のキャンパス全景)ところ、まだ関東大震災の余波で国家財政がままならないとして寮の移転のみが認められたため、同年4月に恵迪寮生は、強い反対を唱えつつも「別離の歌」を制定して閉寮訣別晩餐会を催して寮舎26年間の歴史を閉じた。なお、懸案であった法文学部は終戦後まで遅らされ、寮の跡地には1941年低温科学研究所が設置され、ニセコ山頂でゼロ戦の翼に付着する氷害の研究や雪の結晶の研究で有名な中谷宇吉郎教授らが大活躍をする。