恵迪寮歌にちなんだ歌碑の紹介(3)

[静岡市葵区・長源院の「都ぞ弥生」歌碑]

河田悠紀恵さんや北大同窓生によって建てられた横山家の墓石の後ろに歌詞を刻んだ墓標
河田悠紀恵さんや北大同窓生によって建てられた
横山家の墓石の後ろに歌詞を刻んだ墓標

 横山芳介は、北大を卒業した大正7年、農会(現在の農協)技師として静岡県に赴任、翌年に同県小作官となった。狭い農地で苦しむ小作農の立場で農地争議を調停し、農家の人たちに慕われていたが、激務がたたり早世し、静岡市内の長源院に葬られた。遺族は戦災ですべてを失い、やむなく東京に引き上げたため、長源院の墓は弔う人もなく放置されたまま。

 幼くして父母と死別し、12歳から横山家に奉公していた河田悠紀恵さんは戦後、苦労して料亭の女将になったが、幼いころ、我が子同様に可愛がってもらった横山の恩愛を忘れず、長源院を探し回り芳介の墓を見つけ出した。それ以来、供花と墓参りを続けていたが、たまたま北大創基80周年事業で彼女の料亭に集まっていた県内の北大関係者がこの美談を聞き、「北大のシンボルともいえる寮歌を作り、静岡の農民に愛された横山芳介を顕彰する歌碑を作ろう」と県内の北大同窓生らに募金を呼び掛けた。「都ぞ弥生」の作詞者として敬愛している農民からも寄付金があり、昭和33年(1958)に墓石と歌碑が一体となった墓碑を設置した。墓石の後にある衝立状壁面には、戦災で唯一焼け残った学生ノートから寮歌完成時の直筆歌詞が刻まれている。

境内の中心地に建つ二代目歌碑
境内の中心地に建つ二代目歌碑

 その後、歌碑文もしだいに薄れ、歌詞や由来などが読めない状態になり、再び県内外の同窓生らに新しい歌碑建立の募金を呼びかけた。長源院の新住職も毎年、全国から参拝する北大OBや地元農民の姿を見て感激し、境内の中心部に設置場所を提供し、歌碑周辺の造園工事などに協力を惜しまなかった。最初の歌碑から約40年経った平成11年(1999)3境内の中心地に建つ二代目歌碑月、黒御影石に「都ぞ弥生」の一番を刻み、台座に名寮歌の誕生秘話や歌碑の由来などを記した新しい歌碑が誕生した。