恵迪寮の歴史(4)

【4】第2代恵迪寮舎(1931-1983年、北18条西8丁目、現高等教育研究機構棟の西側)

建築直後の新恵迪寮舎大学官報掲載 1931 1931(昭和6)年秋、北17条の野球場とサッカー場(現在は旧教養部を継承する高等教育研究機構の敷地)西側に落成した第2代恵迪寮舎は、理学部の新設が遅れた理由と同様に関東大震災の余波が続いて予算不足のため、初代恵迪寮舎を移設修復して使った。ただし寮舎が西向きだったのを東向きに変えたが、寮棟は日照に配慮して居室窓を南に、寒風の吹付ける廊下を北にしたままとし、玄関と事務所棟は左右反転し、食堂の上に講堂を増築した。恵迪寮同窓会では、この寮舎を「第2代恵迪寮舎」と呼んでいる。

戦時体制
敗戦後の混乱

恵迪寮新制北海道大学 1949(昭和24)年に新学制が施行されて「北海道大学」となり、翌年に予科が廃止され、恵迪寮は教養部生の寮となった。この時教養部に学生自治会が生まれた。1954年に大学は学内8つの寮に共通する「学寮規則」を定め、それに沿って各寮が「自治寮規約」を制定して大学の学寮運営が統率された。しかし、その際に生まれた「北大学生寮連合(寮連)」は、その後の安保闘争等の学生運動と寮の自治問題、寮の新築更新に対する文部省の新寮規約、そして後述する全寮を統一した札幌地区男子寮の新築と運営に大きな関与をすることになる。

安保闘争から大学紛争へ :1967年に「戦後は終わった」と神武景気が叫ばれたが、一方では朝鮮戦争後の余波を受け、破防法反対ゼネスト、勤務評定反対闘争、砂川基地闘争、警察官職務執行法(警職法)闘争などが続いたばかりか、1960(昭和35)年の日米安保条約に伴う羽田事件、国会突入を図って女子学生が死亡した6.15事件など、学生の政治意識を高め、学生参加の時代になった。これも一旦は東京オリンピック等で沈静化したが、10年後の安保改定に際し、各大学の寮内でもセクト闘争まで発生させながら、再び1969年に講堂や校舎を占拠した学生排除に機動隊が登場した大学紛争が社会問題化した。