恵迪寮の歴史(2)

【2】キャンパス移転(札幌キャンパスの始まり)

移設計画図林学講堂 1889(明治22)年の帝国憲法制定、翌90年の帝国議会の開催によって近代日本が定着し、開拓事業最盛期の北海道では、人口が100万人に達して鉱工業が発展し始めた。札幌農学校は1901(明治34)年に演武場で創立25周年記念式典を盛大に開催し、学芸会編「札幌農学校」を刊行してクラーク博士の高邁な教育や夢多き北海道の自然を紹介したところ、ベストセラーになって府県からの進学者が急増した。そこで札幌農学校は、帝国大学への昇格を見込み、1901年から1903(明治36)年の間に現札幌時計台位置から現農学部位置(当時の第一農場南部)にキャンパスを移転させた。右上図は移設計画図であるが、1935年に鉄筋コンクリート三階建に更新した農学本館を除けば、多くの建物が1960年代まで残ったため、70歳以上のOBには、教養部時代の校舎として懐かしい建物であろう。なお、図中の大講堂は、急に水産学科の新設が決って水産講堂が建築されたため、1916(大正5)年まで延期され、講堂の機能は新設の図書館ホールを使った。また、クラーク像脇の林学講堂(1965年まで教養部事務室)は、1905年に古河財閥の寄贈によって新築され、帝国大学昇格の記念建築物である。

 キャンパスを現在の農学部一帯に移転した札幌農学校は、時計台一帯の跡地を払下げたが、標準時を伝えてシンボルともなっている演武場は、札幌市に寄贈されて「札幌時計台」と改称して残された。ただし、跡地の再開発の関係から、北2条にあった演武場を約100m南の寄宿舎跡地に移動して今日に至っている。