今総長の「立身沃作」

今 裕 第4代総長揮毫の書額「立身沃作」

掲示場所

 北18条にあった第2代恵迪寮舎の応接室に掲げられていたと思う。
 現在は、北海道大学の大学文書館に寄託している。

揮毫経過

 この書額は「恵迪寮小史」の刊行に合せて1942(昭和17)年に書かれた。その当時は、大東亜戦争と呼んだ第2 次世界大戦の最中であり、配属将校が軍事訓練を行い、自治寮の中核である執行委員会は停止させられ、大学が指名する幹事会制となっていた。また、記念祭(寮祭)の一般公開禁止、学校報国団を編成して勤労動員の義務化、それに繰上げ卒業(1941年、卒業と同時に軍役徴集)が行われていたし、食糧増産・国防施設建築・緊急物資生産・輸送力増強への学徒戦時動員体制が通年化し、在学を理由とした徴兵延期特例を廃止して学徒出陣(1943年)も行われ、「欲しがりません勝つまでは」と国民皆兵へと突き進んでいた時である。

 書額は、「立身沃作真男子/臨事登為賤丈夫/為恵迪寮生裕」と書かれ、「身を立て沃すは真の男子を作る、事に臨みて登るは賤しき丈夫と為る」と読みくだされ、立身沃が積極的な研鑽で豊かな知識を獲得する、臨時登が時勢の流されて進むと考えれば、物資統制の中で1943年1月に刊行された「恵迪寮小史」への賛辞と理解することも出来る。その刊行主旨は、大学内に戦時体制が敷かれ,自由や自治が拘束されるようになったため,寮史を通して自由を取り返そうという秘めた動機により、「寮生が寮に目覚め、寮の本質理念を追求し,真の寮生活を営まんとする意欲漸く高まりつつある時,寮史の刊行は第一になされるべきものである。しかし,昭和16年学校より時局を考え、紙不足のことを考え、発行を中止するように通達されており、1年半原稿も眠ったまま(恵迪寮史第2巻290頁)になったが、ようやくに許可を得て「恵迪寮小史」を刊行した。

 この小史の題字を書いたのが、当時の第4代総長今裕先生であり、寮生の意向も理解できるが、時局柄、厳しくせねばならない気持ちを込めて書額を寄せられたと思われる。それが敗戦に終わると、ある卒業生(開戦時の恵迪寮執行委員長)の求めに応じて1945年秋に書かれた色紙に、「慮失者常得/懐安者必危/祝上村君之卒業裕」と書かれ、国力の差を軽視して戦争を起こし、敗戦へと導いた軍閥への憤りを示しておられる。この扁額は、縦1m67cm、横85cmの大きな額に表具されている。

揮毫者

 第4代総長今裕(こんゆたか)先生は、医学部病理学第1講座教授で、細胞学が専門であり、1934(昭和9)年に「組織の銀反応」の研究で学士院賞を受賞されている。戦時体制下の1937(昭和12)年12月から1945(昭和20)年11月まで総長を務められ、大変な苦労をされた。