佐藤総長の「手稲山頭」

佐藤昌介初代総長揮毫の扁額「手稲山頭」

掲示場所

 第2代恵迪寮舎の開設間もなく受領した本扁額は、食堂上の2階講堂に掲げられていた書額であり、開識社・寮生集会などを見守り続けた額である。現在は、北海道大学の大学文書館に寄託している。

揮毫経過と文意

この扁額は、落款の「昭和壬申晩秋」、すなわち1932(昭和7)年晩秋に書かれた。恵迪寮では、この年11月21日に「移転開寮1周年記念日」を迎え、佐藤前総長、南総長、青葉前予科主事による記念講演、その他先輩22名を招いた晩餐会を開いている。この記念講演で、佐藤先生は下記の所感を寄せられた(恵迪寮史569頁より)。

  恵迪寮口吟

三百英材意気豪 / 身航学会凌活濤 / 寮中憂散眺窓外 / 手稲山頭秋月高 / 
手稲山頭秋月高 / 自然之大尽薫陶 / 雄飛万里遂吾志 / 三百英材意気豪 / 

この扁額は、この所感に合せて作られたものに間違いない。石狩平野の西に広がる手稲山群は、寮生の心を捉えて幾多の寮歌に詠まれているが、明治45年寮歌「都ぞ弥生」の2番秋を歌った「豊に稔れる石狩の野に/雁遥々沈みてゆけば/羊群声なく牧舎に帰り/手稲の嶺黄昏こめぬ/・・」を連想させる。
この扁額「手稲山頭秋月高」は、縦49cm、横1m76cmの額に表具されている。

揮毫者

書の落款は、書額「恵迪吉」と全く同じの「琢堂書」という署名があり、さらに「佐藤昌介」「琢堂」の2つの落款印が押されて、揮毫者は明らかに初代北大総長大御所佐藤昌介先生である。安政3(1856)年に南部藩士の家に生まれ、東京英語学校から21歳で札幌農学校1期生として入学、明治13年に卒業後にアメリカのジョンス・ホプキンス大学に学び、明治19年に帰国して母校の教授となった。それ以後、農学校廃止論や格下げ縮小論と戦い、今日の北大の基盤を作った。したがって、昭和5 年に退職するまで、農学校、農科大学、帝国大学の長たること39年間に及んだ。農業経済学の生みの親で、大農論、殖民論などが知られている。昭和14年没。