3. クラーク博士肖像画の継承

 1969年に機動隊が大学構内に入った大学紛争を契機に学生自治が問題になり、学寮関係では学生寮を教育施設(新寮規)から個室主体・経費負担区分の厚生施設化(新々寮規)が急浮上し、約10年間も学生部と寮連合とが激しく争った。その中で学生部交渉に不満のやり場のないある恵迪寮生は、クラーク肖像画を官のシンボルに見立て、キャンバスに角材を打ち付けて像の腹部に5cm角の鈎裂きを作った。驚いた全寮生は、われ等が継承するクラーク精神のシンボルなのにと反省し、地元の画材業者に裏打ち補修を依頼して内々に補修を行った。

 遂に大学評議会は新々寮規による寮舎建築を容認し、1983(昭和58)年4月に七学寮を統合した新々寮規による鉄筋コンクリート4階建て6棟の「札幌地区男子寮」を新築し、恵迪・北学・進修・桑園・月寒・楡影・女子の7学寮を閉鎖した。しかし、その新々寮は、文部省の規定通り大学による入寮銓衡、個室・負担区分制の大学直営施設であったため、交渉窓口となった学寮連合は、在来通りの自治寮への復帰、全寮生が入る大食堂の新設、自主入寮銓衡権の確立などを主張して泥沼状態の紛争が延々と続いた。この状況下で個室しか与えられない旧恵迪寮生らは、寮の文化財であるクラーク肖像画や総長らの扁額の掲示・保存場所がなかった。そこで恵迪寮同窓会は、この保全・管理について厚生課学寮掛および恵迪寮史編纂委員会と話し合い、大学管轄内でも寮生の意向が通じる部屋ならば収蔵可能との了解を得て、緊急避難的に農学部高井助教授室に保管した。その後も寮生と大学の新寮闘争は継続し、処分や閉寮まで浮上して険悪な状態を経つつ5年間も繰り返したが、平成元年にようやく大学が「恵迪寮」を承認して終息した。

 しかし、前述の文化財は掲示に適した講堂や集会室がない、ロビー等の壁面は天井高さと強度不足などで掲示が不可能であった。他方で文化財の個室搬入を見ていた岡島農学部長は、「個室に山積するよりも、学部長室が安全だし、公開の意義がある」と提案されたため、貴重な飯田筆クラーク肖像画および南鷹次郎揮毫の扁額「自彊不息」を農学部に寄託して今日に到っている。

 なお恵迪寮同窓会は、1984年にクラーク肖像画を受入れた時、前述の寮生が付けた傷の補修が不良で、15cm角位の裏打ち材が乾燥と共に縮小し、キャンバス全面にシワを作ったため、油絵具が全面的に激しく浮き上がっているのを発見し、北海道近代美術館出入りの東京の古美術品業者に50余万円を費やし、油絵具の固定とキャンバスの全面裏張りなどの修復工事を行った。

 また、その後の掲示に係る現寮との交渉は、1999年の恵迪寮同窓会15周年の際、掲示場所の補強工費を大学負担としてホール階段部上面への掲示を提案したが、執行委員会から「あらゆる場所にビラ貼りを許容する慣行では管理が保障できない」と拒否された。また最近の寮舎は、新築後すでに35年余を経て、水道配管や電線等の全面修復を始め、壁面等の修復と耐震補強の追加などから、棟毎の閉鎖・修復工事を議論している段階のため、肖像画等を掲示できる状況にない。

 飯田筆のクラーク肖像画の意義と歴史を考える時、いつまでも恵迪寮舎への掲示に拘らず、高等教育研究機構(旧教養部)やクラーク会館など学生主体の施設に掲げ、全学生に肖像画を通してクラーク精神を伝承する手法も良法かとまで思い悩んでいる。

(文責:恵迪寮同窓会顧問高井宗宏(昭和31年入寮)


目次
1.クラーク博士肖像画の制作
2.クラーク博士肖像画の恵迪寮移管
3.クラーク博士肖像画の継承