【肖像画製作者の飯田雄太郎】

 クラーク肖像画の制作者:飯田雄太郎は、札幌農学校の正規職員だったため学内に職務記録が残る筈であるが、不幸にして雇用年と退職年のみに止まって明細がない。しかし、2016年秋にクラーク肖像画が縁となり、飯田雄太郎の親族から家系図が入手できて経歴が明確になった。すなわち飯田雄太郎は、1867(慶応3)年東京市生れ、工部省東京電信学校に進み、明治美術会を設立して安井曽太郎・梅原龍三郎らを輩出した洋画界のリーダー浅井忠教授に絵画を学んでいる。その後、渡道の理由は不明ながら、1894(明治27)年北海道尋常小学校に赴任し、次いで1898(明治31)年札幌農学校予習科・土木学科画学講師に採用された。そして翌年夏に本ページの主題となる油絵「クラーク肖像画」を完成させ、次に1902年1月に刊行された植物図鑑の川上・森編「はな」の挿絵を担当して、農学校で画学講師の本務以外に画家として活躍が光る栄光の時代である。

 しかし、トルストイに傾倒した恵迪寮生による1903-4年の日誌を発掘し、日露戦争時の反戦思想を紹介した松沢弘陽著「札幌農学校、トルストイ、日露戦争」(北大法学論争39号1989年)は、要約して『飯田講師は、日露戦争に関して札幌美以(メゾジスト)教会の非戦論者仲間にいたため、北鳴新聞に不敬・不忠事件が報じられ、1904(明治37)年3 月に37歳の若さで農学校を解職された。これに対して学友は、誰もが反戦を唱えている中での処分は無謀とする意見が多い』と批判論を紹介する。他方、日誌を書いた寮生が居住した寮の委員日誌を整理した「恵迪寮史」は『学内行事は戦勝祝賀行事が繰り返され、社会的には非戦論が押し潰されている』と書き、寮内に飯田の画学を毎週4時間受講した予科生が多数居るし、前述の日誌のように反戦意見の寮生も多い筈なのに飯田事件に何も触れないため、時勢がら「不敬」の拡大を恐れて学校から何らかの極秘指令があった可能性も否定できない。故に農学校の職員記録が雇用年と退職年のみの理由は、解職という特殊事情だと断定できる。なお、飯田は同年末まで札幌に滞在した後に上京して消息を絶ち、1906年6月に東京学士会館で開催された日本エスペラント協会の創立総会に参加している。

これ以外に情報がなく、青山霊園の墓標から1909年に42歳で逝去したことを確認した。


目次
1.クラーク博士肖像画の制作
2.クラーク博士肖像画の恵迪寮移管
3.クラーク博士肖像画の継承