南総の「恵迪寮看板」

南鷹次郎総長揮毫「恵迪寮看板」

この厚木額は、裏面記載の通り1931(昭和6)年1月21日に書かれ、その後第二代恵迪寮舎の廊下から玄関に連なる頭上の小壁に掲示されていた。現在は北海道開拓の村に寄託して恵迪寮舎の展示室に掲示されている。

 揮毫者の南鷹次郎先生は、前年の12月19日に第2代総長に就任したが、その最初の大事業が恵迪寮舎の移転であった。寮生は『明治38年4月(現在の文系講堂位置に)新寄宿舎なって26年、その間幾多の暗黒と苦闘の時代を経て今将に自治の牙城として自他共に許す光輝の時代にいながら、有終の美を成し得ずして終わらんとす。嗚呼!自治寮の精神は、則ち校風の淵源にして「恵迪寮無くして北大予科なし」の信念こそ我等寮生の強き祈祷であり、大いなる責務である。たとえ半ヵ年と雖も「寮を中絶すべからず」とは、恵迪寮自治権擁護のため、将又校風維持のため、寮生二百の心底から湧き出た偽らざる叫びである』との意向を入れ、4月から約半年の閉寮・移転工事中も寮活動を継続することとなり、その精神の拠り所としてこの扁額が作られたと言われる。すなわち、昭和6年1月19日に恵迪寮が主催した「新旧総長歓送迎晩餐会」の際に、第71期委員会(恵迪寮史では第94 期、委員長:瀬野周治、寮務部長:蜂須賀福造、寮務委員:木村政良・米澤二夫・宮沢正衛、炊務部長:村形友治、炊務委員:丹羽勝・上野隆司、購買部長:藤島一夫、購買委員:野間収・園山政吉の署名がある)の要請に応えて揮毫された。春3月には”Per Aspera Ad Astra” と書いた閉寮記念メダルを作成して最後の卒業生を送り、次いで4月26日に閉寮記念晩餐会を最後に全員が寮舎を退出したが、退寮後も予科体育館内に寮事務部を設け、「恵迪寮報」の刊行、「恵迪寮史」の編纂、自炊制度の確立業務などを継続した。同年11月21日には(現在の高等教育機能センタ裏の野球場の位置に)南・中・北・新寮棟に食堂・講堂を付したモダーンな第二代恵迪寮舎が完成し、市内に分散していた寮生が入寮した。

揮毫者紹介

 別ページの扁額「知徳併進」と「自彊不息」の揮毫者紹介欄を参照して下さい。