伊藤総長の「青年抱大志」

伊藤誠哉第5代総長・学長揮毫の扁額「青年抱大志」

掲示場所

北18条にあった第2代寮舎に掲げられていた書額であるが、寮務事務室だったか、応接室だったか明らかでない。現在は、北海道開拓記念館に寄託し、開拓の村恵迪寮に展示している。

揮毫経過と文意

この扁額は、1945(昭和20)年~1950年に書かれたのは間違いないが、その詳細は明らかでない。扁額の「青年抱大志」は、クラーク博士の名言に由来することは言うまでもないが、次のような学内の動きに呼応している。先ず北大構内に駐留する進駐軍とのトラブル対策、厳しい食糧難のために寄宿舎6施設を民間から借り上げて学生生活を安定させるための対応、予科練や軍隊から復学した戦時派と若い戦後派の連帯意識の醸成、さらにイールズ事件やレーン宮沢事件等への対応などを考え、学生達にBe Gentlemanの精神を想起させるため、1948年にクラーク像の再除幕式を行ったことである。クラーク像は、1926(大正15)年に創基50周年記念事業で除幕されたが、その像が第2次大戦下に軍需品生産のために拠出させられて台座のみであったため、伊藤総長の下で再建されたのである。なお、1947年に新学制:北海道大学が発足し、新たに文系の法文学部が設置されたことも大きな要素であろう。続いて1951年には、クラーク先生がBoys,Be Ambitious!と叫んで別れた島松の地に「クラーク奨学碑」を建て、前にも増してクラーク精神、クラーク魂を伝播させ、建学精神の伝承・北大魂の発揮を強調された。すなわち伊藤総長は、戦後の混乱と変動期にクラーク像を持出して学内の意思を統率されたのである。なお、扁額は「恵迪寮生=北大生よ!くじけずに勉学に専念して欲しい」との願望が込められていることも言うまでもない。

揮毫者紹介

北州、すなわち伊藤誠哉先生は、終戦の年から新学制に代わるまでの総長であったため、正式には北海道帝国大学総長(1945~47)、北海道大学総長(1947~49)、北海道大学学長(1949~50)という3つの肩書きを使われた。伊藤誠哉先生は、1902(明治35)年に恵迪寮入寮し、1908年に農科大学生物学科を卒業して植物生理学を専攻された。

先生は、1930年ごろ泥炭地水田の増加と共に水稲のいもち病が大発生したのを見て、いもち病の伝染経路と発生の機作を明らかにすると共に総合防除法を開発して画期的な成果を納めた。その成果によって生産性が大幅に向上した共和町の農民達は、巨大な記念碑を建てて感謝を表した。また、「日本菌類誌」をまとめて植物病原学の基礎を築かれてもいる。