自炊制を施行

 “食物”についての不平不満の種は、洋の東西を問わず尽きることがない。ましてや、食欲旺盛の若者を多数かかえる寮においてはである。開発途上の明治時代にあっては、有能で良心的な食堂請負人(賄方)を得る事が出来ず、旧寄宿舎時代から賄問題は、自治制施行後の委員会の最大の悩みであった。新しい恵迪寮時代に入っても“まずい”“少ない”“不衛生”といった食事に対する舎生の不満は高まる一方、このため舎生大会を開いて“自分達の飯は自分達の手でやる”と決議、自炊制度の実施に踏み切ったのである。その準備活動の中で、恵迪寮園芸部・畜産部も設立され、自家用の野菜を作り、養鶏養豚を行って自炊制度を助けた。30数年後の第2次大戦中の食料難時代に、同部は再び大活躍することになる。明治41年(1908)にスタートした自炊制度もまずは順調な歩みを続ける恵迪寮内では、予科生と本科生が寮生活を送っていた。舎生の意志疎通を図るために、明治40年から始まった定山渓遠足、明治9年以来の開識社など、新旧の伝統行事が寮生活を彩る。洋行帰りの予科講師有島武郎が寄宿舎係として寮に寄宿し、舎生に深い感化を与えた。そして時代は、明治から大正へと移っていく。