「恵迪寮」と命名

 札幌農学校は、明治40年(1907)6月、東北帝国大学農科大学となった。長年にわたる帝国大学昇格の運動はここにひとまず実り、今日に残る古河講堂(林学)を始め、予科、畜産、農芸学科などの講堂が次々と完成した。
 一方、2年前の38年(1905)に開舎した新寄宿舎では、新しい寮舎にふさわしい名称をつけようと舎生より公募をしたが、適切な名称が集まらず、湘香新居敦二郎先生に依頼して、書經の大禹謨にある「恵迪」の名をいただいた。「迪に恵えば吉し」を意味する「恵迪」は、以来、“寮名”として、またここに青春をおくる舎生たちの“精神的支柱”として生きつづける。
 ところで、明治32年(1899)にスタートした寄宿舎の自治制度は、新寄宿舎にも引き継がれたが、帝大昇格の後は入舎退舎の許可を寄宿舎の委員会決議にゆだねるという舎監部からの通知を受けるなど、自治の範囲は一層広がった。ともあれ、それまでの市街地(現在の時計台の位置)から、広々とした新キャンパスの中に移った新寄宿舎“恵迪寮”では、全国各地から集まった舎生たちが、彼方の手稲の山なみをみながら、エルムの森の中での豊かな自然につつまれた寮生活をスタートさせた。そしてやがて、全国を風靡する名寮歌“都ぞ弥生”がここに生まれる。