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クラーク像の背中

[サロン]

   薄っすらと雪に覆われた12月2日のクラーク像周辺です。ところでクラーク像の背中を見たことはありますか?
そこには原作者の田嶼碩朗氏の名前がローマ字で彫られています。1926年北大開基50周年記念行事として建立されたときに依頼を受け田嶼碩朗氏が制作したもの。戦時中一時収用され1948年10月戦後加藤顕清氏が監修、原型を忠実に復元したものが現在のクラーク像とのこと。
今年1月田嶼碩朗氏の末娘の山崎貞子氏による「彫刻家 田嶼碩朗」という本が出版された。(㈱共同文化社 刊)
山崎氏によれば、田嶼碩朗氏は東京美術学校(現在の東京芸大)を卒業し、明治、大正、昭和の3代にかけ活躍した芸術家である。
また、その中に、子息田嶼行平(ゆきへい)氏の「クラーク像と父」という文章も載せられている。田嶼行平氏は予科時代の恵迪寮生で昭和5年の入寮であった。医学部14期生で昭和14年に卒業されている。
行平氏の文章には、父碩朗が佐藤昌介総長、大島正健教授などクラーク博士の教え子にその人となりを聞きながら大変な努力と苦心の末制作したことが書かれているが、また次のような逸話も書かれている。「昭和5年、筆者が北大予科恵迪寮生時代のある真冬の夜コンパがあって寮友数名と寮歌をがなりながら薄野からの帰途、理学部前の寮の手前で、いきなりとびかかって来た暴漢からビンタを食らったのである。驚いた友人たちが取り押さえたところ、なんと父であった。家郷に少しも便りをよこさぬ倅を案じて、わざわざ東京から冬の津軽海峡を渡って、やっと札幌に着き、夜まで帰寮を待ちわびて、外に出たところへ、マイナス10度以下の吹雪の中を夏服一枚にマントをはおっただけの姿でいい気分で歩いている倅を見た途端、安堵と腹立ちが重なってカッときたらしいのである。・・・」
スパルタ式の教育だったとも書かれているが、内面は優しい芸術家の一面がよく表れているような気がする。そして、今も変わらぬ?恵迪寮生の当時の生活の一端がうかがえる文章でもあるように思う。尚、背中に彫られた文字も行平氏が書いた文字とのこと。
以下もご参照 http://www.tokachi.co.jp/news/201603/20160309-0023179.php

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