恵迪寮の歴史(5)

【5】新々寮規による自治寮の排除

 北海道大学は、団塊世代を受入れる学生増募(北大は入学者数を2.5倍に)に対処するため、学内では教養部の新築、理学・農学部本館以外の木造建築を全て鉄筋コンクリート校舎に建て替えた。札幌と函館に9つある大学直営の学寮は、収容人員を倍加させたいが、いずれも木造で老朽化して建て替えが必要であった。先ず水産学部の北辰寮は、函館水産の寄宿舎を継承して極度に老朽化していたため、1965(昭和40)年に新築・更新した。しかし、その直後に旧帝大に警察の機動隊導入騒ぎを起こした1969年の大学紛争は、学寮存続形態に大変な悪影響を及ぼした。すなわち、闘争の温床が大学寮にあると判断した文部省は、自治会活動を制限するために新寮規・新々寮規を矢継ぎ早に制定し、学寮を教育厚生施設から単なる厚生施設とし、個室制で6人毎に自炊用簡易食堂兼洗面所とトイレを配置して集会向きの講堂や大食堂を排除した。その上6人毎ブロックの電気・上下水道料金を寮生が支払う負担区分制とし、寮の事務室に大学職員が駐在して寮内を監視し、全ての管理運営を司り、入寮選考も学生部が行うと言う新方式とした。そのため北大学生部は、学寮の代表で構成する「寮連」と新寮規の受入れ協議を行ったが、話合いがまとまらずに日時のみが経過した。遂に益々寮舎が壊れて危険度が増したため、1981年6月の大学評議会は新々寮規の施行を決議し、1983(昭和58)年4月にキャンパス西北の北18条西13丁目に定員550余名の鉄筋コンクリート4階建「札幌地区男子寮」を新築し、札幌地区7学寮の全寮生を収容した。これに伴って旧学寮舎は、廃棄や払下げなどを行ったが、旧恵迪寮舎は、1907年の大学昇格以来の伝統を継承しているとして恵迪寮同窓会が払下げを受け、北海道開拓記念館に寄贈したため、現在も野外博物館「北海道開拓の村」に保存・展示されている。なお、女子学生寮は、廃止した北学寮の跡地にコンクリート作りの星霜学寮(北14条西2丁目)として新築された。