恵迪寮の歴史(1)

恵迪寮舎の変遷

【1】札幌農学校寄宿舎(1875-1903年、北1条西2丁目)

 札幌農学校の開校:1876(明治9)年8月14日札幌農学校は、W.S.クラーク教頭を筆頭に、W.ホイーラー、D.P.ペンハロー、W.P.ブルックス(半年遅れの着任)のお雇外国人教師を迎えて開校式を行った。この学校こそ、わが国初の学士号を出す官立高等教育機関であり、北1条通りに面した現在の札幌時計台の敷地に学校事務室と学生用の寄宿舎を併設して作られた。

札幌農学校寄宿舎札幌農学校寄宿舎は、1875(明治8)年に新築され、右図のように左側に事務所を併設した一部2階建36名収容の全寮制の施設であり、全室に石炭ストーブと石油ランプを備え、木造ながら良好な施設である。さらに全生徒を官費生として当時の欧米留学に相当する扱いをしたが、他方で「学力の足らざる者の大多数が退学(実際には開拓使技術職員に雇用)を命ぜられ、1期生の入学者24名の内で14名が卒業したのみ」という厳しい選別をされた。次いで1882年に開拓使が解散してからは、卒業後の北海道への勤務義務を免除する代わりに官費生が半減されて入学志望者が急減した上に、文部省の所管学校でないために学校資産が制限されて廃校の危機を迎える。しかし、1期生から母校教授になった佐藤昌介・南鷹次郎らの活躍により、アメリカのモリル法を模倣した支援手段を生み出して廃校危機を乗り越え、1895(明治28)年にようやく文部省の所管となった。この頃になると北海道への移住者急増による人口増加および鉱工業の急速な発展によって帝国大学昇格の機運が高まったため、キャンパスを現在の札幌時計台一帯から現農学部付近に移転することとなり、寄宿舎も1903年に移転・閉寮された。