南総長の「自彊不息」

南鷹次郎第2代総長揮毫の扁額「自彊不息」

掲示場所

 北18条にあった第2代恵迪寮舎の寮務事務室または応接室に掲げられていたと思う。
 現在は、北海道大学農学部に寄託し、農学部内で唯一の南鷹次郎筆の扁額として、農学研究科長室に掲示されている。

揮毫経過と文意

 この額は、落款によって「昭和壬申冬」、すなわち1932(昭和7)年冬に書かれた。恵迪寮では、この年11月21日に「移転開寮1周年記念日」を迎えて晩餐会を開いた際、前述の佐藤前総長の「手稲山頭秋月高」と総長:南鷹次郎先生から扁額「自彊不息」を頂いたと考えられる。

 扁額の「自彊不息」(じきょうやまず)は、易経の「天行健、君子以自彊不息」に由来し、石坂洋次郎著「若い人」に「天行健、自彊不息(天体が昼夜止まず運行しているように『みずから勉強して休まない』で努力する)の常道に則るのが教育そのものの地味な本質に適切している」と書いているのと意味が合う。当時、社会一般が戦時に向けて騒然とし始め、同年夏に学生67人が特高に検挙されると言う赤化事件が発覚しているし、農村では6年の凶作に続いて7年には水害がひどくて「農民が極度に疲弊し、塗炭の苦しみに喘いでいる」などで苦労が絶えない所であった。そこに「寮舎移転場所の選定で学生と当局が紛糾した時、総長みずから仲介されて学生に慈父の如き温情をもって交渉されたので円満に現在地に決定した」という経過がある上に、市内に分散していた寮生が戻って寮の行事をすべて復活させて1周年を迎えたという経過を振り返り、総長の喜びは一入のものがあったであろう。

 この扁額は、縦46cm、横157cmの額に表具されている。

揮毫者

 南先生は、前述のように1885(明治18)年の農園監督を経て1889(明治22)年に教授になると、作物学、園芸学、土壌学、肥料学、農具学、土地改良学、畜産学、獣医学を担当し、週に20時間以上の授業を行った。一方学校運営面では、1888(明治21)年から1918(大正8)年まで農場長を務め、学長・農学部長であった佐藤昌介先生とのコンビで農学校・帝大農科大学時代の運営を担った。北海道帝国大学になって1年後の1918年4月には、佐藤先生が総長専任になったことから南先生が農学部長となり、停年となる1927(昭和2)年3月まで務めた。続いて、理学部ができて総合大学としての体制ができたことから佐藤総長が勇退されることとなり、始めて総長の任期と選出法を定めて第1回の総長選挙を行った結果、南先生が過半数の票を得て昭和5年12月19日には北海道帝国大学第2代総長に就任された。そこで理学部教授陣の増強、厚岸・室蘭実験所の開設、そして農学部本館の改築着工を成し遂げられたが、昭和8年夏に病魔に襲われたため、10月16日に評議会を召集して辞任された。