2. クラーク博士肖像画の恵迪寮移管

 現在の札幌時計台一帯にあった札幌農学校は、近い将来に大学に発展することを予定し、1898~1901(明治32-34)年に第一農場南部の現農学部棟一帯にキャンパスを移し、寄宿舎は現法文系校舎棟位置に新築移転した。しかしながら、講堂の建築が水産科棟新設のため延期され、講堂の代わりに図書館集会室(現農学部前にある旧中央図書館、現在は生涯学習教育研究部室)を使うようになると、写真3のように黒田長官像は同じながら、クラーク博士像は、キャンパス移転の頃にクラーク博士の遺族から佐藤総長に贈られた小ぶりの肖像画に差替えられた。加えて農学校-北海道大学は、写真4 のクラーク像を公式の肖像画として全資料に掲載し、学内で最初に油絵で制作された飯田制作のクラーク肖像画は、写真集北大百年を始めあらゆる資料に登場せず、後述の恵迪寮を例外とし、学内に存在した事実を裏付ける資料すらない。

写真3
写真3
写真4
写真4

写真3.新しい図書館集会室に掲げられたクラーク像と黒田長官像、クラーク肖像画以外は、時計台掲示品と同一。

写真4.新しい大学公式のクラーク肖像画

(共に「写真集北大百年」より)

 1984年に飯田筆クラーク肖像画に備品登録の焼印をおす中央図書館に問合わせたところ、経過を伝承する秋月俊幸旧北方資料室主任は、「飯田筆の肖像画は、クラーク先生に似ていないし、絵に迫力がないとの評価もあるため、クラーク先生遺族への敬意もあってクラーク家からの肖像画に差換えざるを得なかったと伝わっている」と説明された。しかし、1904 年に飯田講師は、日露戦争に関わる不敬事件が新聞報道されて農学校を解職されたことが判明し、佐藤昌介校長が社会的影響に配慮して肖像画の差替えを命じた可能性も推定されるが、これには今後の厳密な調査が必要である。

 時計台講堂から外された飯田筆クラーク肖像画は、1905(明治38)年6月24日に、キャンパス移転によって新築された寄宿舎の食堂に掲げられた。恵迪寮史1巻320頁には「図書館より借り受けて新たにクラーク先生の肖像を食堂に掲げる。崇敬措く能はざる先生の面影に朝夕接することの出来るのは、舎生の此の上なき喜びである」と記載する。2年後の1907年9月には札幌農学校が東北帝国大学農科大学に昇格し、寄宿舎名を「恵迪寮」と名付けた。すなわち、時計台講堂にあったクラーク博士肖像画は、恵迪寮の食堂に移され、それ以来、理学部前の初代恵迪寮舎から北18条の第2代恵迪寮舎に移転して1983(昭和58)年に閉寮されるまで、実に78年間も継続して食堂に掲げられたため、そこで生活した11,000人余の寮生を見守ってきたし、寮生は朝夕クラーク肖像画に接する毎にクラーク精神の伝統を継承すると誓ったのであった。


目次
1.クラーク博士肖像画の制作
2.クラーク博士肖像画の恵迪寮移管
3.クラーク博士肖像画の継承