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月別アーカイブ: 2018 9月

加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第3弾)

[サロン]

【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。

この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。

※ホームページにも掲載します。

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9議論:
部屋ではよく議論した。テーブルに陣取り、安いトリスを飲みながら夜を徹して行っていた。たいした話ではないのだが、議論の種は尽きなかった。筆者は浪人入学者だが、現役で入った同い歳の先輩がなかなかの論客で、何時も最後は説得されていた。

 

9議論

 

 

10部屋コン:
部屋でのコンパもよくやった。一つのベッドの布団を片付ければ、たちまちそこが会場。安い合成酒やトリスをがぶ飲みして、談論風発、爆笑連発。疲れ果てれば、一人一人とベッドに倒れ込む。翌日の授業など、全く念頭になかった。

 

10部屋コン

 

 

11観桜会:
寮にはいろんな行事があった。春先の大事な行事は観桜会。桜は5月の連休に入ってから開花する。寮から応援団を先頭にして、列を連ねて街を練り歩き、円山公園を目指す。もちろん、寮歌放吟しながらだ。一体感醸成の大事な行事だ。

 

11観桜会

 

12観桜会・四丁目ストーム:
観桜会では2回ストームをやる。札幌駅前と四丁目交差点である。♪醒~めよ~迷いの~ゆ~め醒めよ~。♪札幌の~農学校~蝦夷が島~。肩を組んでのぐるぐる回り。電車も車も停めたから迷惑なことだが、市民の目は暖かった。

 

12四丁目

 

13観桜会・円山公園:
公園に着くと、本番の大宴会が始まる。勝手に円陣を組んで、酒を交わす。円陣の中心には高台が設けられ、サークルや友人数人ずつが登り、好きな寮歌を放吟する。周りで肩を組んで踊り出す者も出る。肝心の桜はもうお構いなしだ。

 

13円山

 

 

以上


加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第2弾)

[サロン]

【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。

この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。

※ホームページにも掲載します。

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【今回は、第2弾です。】

 

4部屋:
部屋では、ベッドと机が一人の空間。洗濯物や着る物は、ベッドの上に紐を通し、ぶら下げた。寒い北の街だが、スチームが通っていたので暖かかった。明け方スチームが通り始める時のカチン、カチンという音が懐かしい。

4部屋

 

5落書き:
部屋には壁一面に落書きがあった。壁ばかりか天井にもあった。部屋の先住者、つまり先輩達が書き残したものである。落書きは、つぶやきから哲学的なものまで様々だったが、卑猥なものは皆無だった。寮生の誇りがあったのだろう。

5落書

 

6エッセン:
寮用語は、何故かドイツ語だった。だから食事はエッセン、おかずはネーベンだった。エッセンは食堂で採る。テーブルに4人揃ったら食事開始。当時鯨肉がよく出たので、寮生は「げいてき寮」と自虐気味に言っていた。

6エッセン

 

 

7ブキ:
寮生は皆ブキを持っていた。と言うと、如何にも物騒な話だが、ブキとはフォークである。エッセンの時、箸ではなくフォークを使ったのだ。一本で、切る、突く、掬うことができる便利なものだった。

 

7ブキ

 

 

8部屋割りサークル:
同好の士が5人集まれば、サークルとして一部屋貰えた。筆者は、ユーゲントコールに入った。近くの看護学校寮生と混成合唱をするサークルだったから、寮内では軟弱派だった。他には硬派として応援団、空手、柔道等があり、学生運動派のサークルもあった。

8部屋割り

 

以上


士幌小屋チセ・フレップ40周年記念バスツアー 開催報告

[事務局からのお知らせ]

恵迪寮生たちが北海道十勝の士幌町に建てた研修施設「士幌小屋チセ・フレップ」の設立40周年記念式典が、9月16日に士幌町で開催されました。
記念式典にあわせて、恵迪寮同窓会でバスツアーを開催したので報告します。

バスツアーには、OBが25名、学生が18名、合計43名が参加しました。
9月16日の朝、貸切バス1台で札幌駅北口を出発し、途中、恵迪寮と新千歳空港に立ち寄り参加者が全員そろい、士幌小屋へ向かいました。
バスの中では、DVD「清き國ぞとあこがれぬ」を鑑賞し、寮歌「都ぞ弥生」(M45年)、「草は萠え出で」(S53年第70回記念祭歌)を歌いました。また、小屋設立に関わった方から、当時の話を紹介してもらいました。
高速道路がつながったので、当時と比べると移動時間が大幅に短縮し、便利になりました。

写真1 バスの車内

 

写真2 林の中に建つ士幌小屋  士幌小屋に到着。自家用車で参加した寮生、OBと合流。

 

 

写真3 小屋の中で、寮歌「都ぞ弥生」、「草は萌え出で」を歌いました。

 

写真4 小屋の外で集合写真を撮影

 

写真5 山本牧さん(S49)によるミニ講演会。小屋建設時のお話し、当時の写真をスライドで紹介していただきました。

 

写真6 士幌小屋チセ・フレップ40周年式典が行われる士幌町総合研修センターへ移動

 

写真7 式典で恵迪寮士幌小屋チセ・フレップ運営特別委員会・樋浦一希委員長が挨拶

 

写真8 士幌町・小林康雄町長が挨拶「屋根の塗装、トイレの洋式化を実施しました。50周年に向けて町民との交流を期待します」との内容

 

写真9 「山小屋に関する協定書」に調印

 

写真10 浪内和弘さん(士幌町元助役)が挨拶 小屋建設時にたいへんお世話になった方です。

 

写真11 二代目設立委員長・芹沢利文さん(S51)が挨拶 「40年支えてこられた町、寮の方々に敬意と感謝を申し上げます。」

 

写真12 士幌高原ヌプカの里 焼肉ハウスで行われた懇親会 焼き肉を食べ、寮歌を歌い、交流しました。地震発生直後であったため、自粛してお酒はなし。

 

写真13 士幌小屋で二次会 夜遅くまで語り合い、寮歌を歌いました。寮生とも交流できました。

 

写真14 宿泊した士幌高原ヌプカの里・コテージ

 

写真15 9月17日、2日目の朝、士幌高原ヌプカの里を出発する前に撮影

 

お礼

多くの方にバスツアーに参加いただきました。ありがとうございました。

OBの方々から、士幌小屋設立当時の貴重なお話しを聞くことができました。

現在、寮生の活動として、新歓士幌ツアー、サマーキャンプ、学習サポート塾などが行われており、小屋が有効に活用され、町民と寮生との交流が図られております。

士幌小屋は、恵迪寮にとって貴重な財産であることを実感することができました。

40年の歴史の中で、士幌小屋に関わった寮生、OB、OG、町民の皆様に感謝したいと思います。

50周年に向けて、士幌小屋を拠点にした活動が活発に行われることを期待します。

OB、OGの皆様も機会があれば、ぜひ士幌小屋に足を運んでいただきたいと思います。

ありがとうございました。

 

一般社団法人 恵迪寮同窓会 士幌バスツアー実行委員会代表 佐野将義(H2)

以上


加藤忠一さんの自作絵画の公開について(第1弾)

[サロン]

【謹告】
恵迪寮同窓会広報委員長の八重樫幸一(S41)です。
この度、昭和36年入寮の加藤忠一さん(画家、相模原市在住)から、次のようなお話をいただきました。「恵迪寮時代の生活を絵にしたため、それを本として出版しました。ついては、それを何回かに分けて恵迪寮同窓会のFacebookページに公開していきたい」とのことです。
これも、広い意味での恵迪寮の文化的財産といえるだろうと思い、快く申し出をお受けすることといたしました。

なお、加藤さんはお酒もこよなく愛されているようで、東京都内にある多くの居酒屋の絵もほのぼのとお描きになっています。

(追)折角の機会でもあり、ホームページ(サロン)にも掲載させていただきます。

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0表紙:
『絵で見る青春の恵迪生活―昭和三六~三八年の北大・恵迪寮―』のご紹介

上記の本を、昨年アマゾンkindleで出版しました(定価100円)。
電子ブックに不慣れな方もおられるかと思い、許されれば本の内容を同窓会のFacebookページで公開させて頂こうと思います(文章は簡略化)。

0表紙

 

00冬の恵迪寮玄関:
当時の教養部の教室(クラーク会館の近く)は寮からかなり遠かった。冬には雪が積もり、寒いので、授業に出るのは大変だったが、寮の外観は趣が出た。

00冬の恵迪寮玄関

 

1恵迪寮とは:
「恵迪」とは、書經にある「迪に恵えば吉し(みちにしたがえばよし)」から取ったものである。この言葉を、寮の一期生佐藤昌介(後の総長)が揮毫した額が、食堂に懸っていた。

 

1恵迪額

 

2寮の構造:
寮は2階建て、4棟構成だった。寮生が5人ずつ居住した部屋が60あった。部屋には洗面台はあったが、トイレはなく共用だった。部屋割りは半期毎に変更された。

2構造

 

3入寮詮衡会:
寮の運営は自治会に任されていたので、入寮詮衡も自治会が行った。詮衡基準は経済的困窮度が第一だが、その他は明らかにはされていなかった。筆者は、先輩牟田悌三(昭和20年入寮、俳優)が寮を訪問するテレビを見て、寮生活にあこがれるようになったことをアッピールした。

 

3入寮詮衡の模様

 

以上

 


平成30年9月23日現在の旧恵迪寮舎の状況

[サロン]

9月初旬の台風及び胆振東部地震による開拓の村の被災状況が報道されてくるにつれ、旧恵迪寮舎の状況が気になり、晴天も手伝い、開拓の村に確認に行ってきた。
ただし、わが目視による概況の把握であり、専門的な視点ではない。

(1)開拓の歴史村・食堂から旧恵迪寮舎へ向かう道路の右側の林(旧恵迪寮舎側)では、多くの樹木が強風により倒されている(写真①、②)。

 

①右側の林

 

②右側の林

 

(2)寮舎玄関へむかう食堂側の小道は倒木により閉鎖状態(写真③)。

③寮舎への近道が倒木により閉鎖

 

(3)正面、玄関前の小道を風倒木の大きな根株を横目に通り、寮舎の雄姿をまず確認し安堵する(写真④、⑤、⑥)。

 

④寮舎への道

 

⑤雄姿

 

⑥雄姿

 

(4)寮舎への倒木の寄りかかり・影響はなし。寮舎中庭側のポプラは小枝を多少落とした程度で雄々しく聳ゆる。記念植樹・エルムも無事(写真⑦)。

⑦記念植樹・エルム

 

(5)屋根の瓦も整然と列をなし輝き、落下、吹き飛びの形跡なし(写真⑧、⑨)。
寮舎を囲む林、特に道路側の林により強風を遮られ、幸い被災を受けなかったか。

寮舎の外周、基礎とも地震によるダメージは受けていない模様。

⑧屋根瓦

 

⑨屋根瓦

 

(6)寮舎内の構造も同様と見受けられる。

設備・備品も整然といつものとおり展示されている(写真⑩)。ただし、開拓の歴史村の方々がもとに戻してくれたのかは不明。

⑩設備備品

 

(7)ただ、内部の白壁には処々に新しい亀裂・ヒビが見受けられる(写真⑪、⑫)。胆振東部地震によるものかどうかは不明。

 

⑪内部の亀裂

 

⑫内部の亀裂

 

平成30年9月23日

恵迪寮同窓会文化常任委員会委員長 野本 健(S47)