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月別アーカイブ: 2018 2月

北海道立文学館のイベントで北大恵迪寮を語る

[サロン]

  札幌市中島公園内にある北海道立文学館では、創立50周年記念特別展として、平成3023日(土)から325日(日)までの期間で「有島武郎と未完の『星座』 ―明治期北海道の青春群像」が開催されています。会期中には、10個のイベントが計画されており、その7番目として、対談「有島武郎と北大恵迪寮」が去る218日(日)に当館講堂で行われました。
 講師として対談されたのは、神谷忠孝氏(北海道大学名誉教授、公益財団法人北海道文学館顧問)と藤田正一氏(北海道大学名誉教授、恵迪寮同窓会副会長)のお二人です。
以下、お二人の対談内容の要旨を記します。
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神谷:昭和33年入寮。帯広三条高校時代に山岳部で山小屋に泊った時の語らいの中で恵迪寮の面白さを知り、北大そして恵迪寮を目指した。学生時代はラグビー部であった。実は、恵迪寮の最初の入寮銓衡で落とされたが、運動部枠があることを知り、グランドでサッカーかラグビーかと考え、最終的にラグビーにした。
藤田:昭和38年入寮。湘南高校時代に予備校の夏期講習の申し込みのため徹夜で並んでいる時に聞いた「都ぞ弥生」に打たれ、志望を東大から北大に変えた。42日に札幌に到着、恵迪寮で仮宿をした際に泊まった応援団の部屋には、憧れの先輩(当時の諏訪正明団長)がいて感激した。ただ、私も当初の入寮銓衡で落とされ、補充入銓で入寮した。(注:当時の選考基準は家庭の収入状況でした。)
学生寮には、集団の中で互いに切磋琢磨しあい、迷惑をかけあい、マナーを身に着けていく、さらに自治の精神を学ぶという教育的価値がある。まさに人間形成の道場である。昭和58年に今の寮舎になった時、大学が意図することを乗り越えようとした寮生達が工夫して寮生活の良い側面を残した。一方で、個室志向・行事不参加の寮生がいることも事実である。ただ、最近になって、例えばお茶の水大学のように、学生寮の価値を見いだそうとする動きがある。
神谷:自治ということに関連して、有島武郎が明治41年に恵迪寮に舎監として住み込んでいた時の日記に「多分自治が一番いい方法だろう」と書いている。これは、寮で流行した脚気が、当時の賄い業者の不正に因があり、その解決のためには寮生が食材等の調達を行うことが大切であると考えたものある。
藤田:新渡戸稲造も学生にアメリカ流の自治(自分のことは自分で決める・責任をもつ・自立を目指す)を教えた。有島は学生時代に新渡戸の家に寄宿しており、その影響もあったかもしれない。
神谷:『星座』は有島の学生時代のことがベースとなって書かれている。
有島の学生時代の友人に森本厚吉がいた。二人は心中未遂事件を起こしたり、森本の勧めでキリスト教に入信し、卒業前に翻訳「リビングストーン伝」を共著として出したり、別ルートではあるが一緒にアメリカに留学したりしている。有島は、その後社会主義に目覚め、ヨーロッパを回りスイスでティルダという女性と知り合い、多数の書簡を送っている。
有島は学生時代に友人と山歩きした際、一人横道にそれてものすごい恐怖を味わったことがある。その経験が『星座』の中にも投影されている。ただ、有島は基本的にはほとんど道内を動いていない。同じく札幌農学校出身の志賀重昂とは違う。
藤田:いくつかの質問がある。①あまり動かなかったという有島の自然描写について、②森本と心中未遂があったとの事だが、有島は死に吸い寄せられているのではないか、③ティルダとの関係を有島はどう思っていたのか、『星座』のおぬいさんのモデルとしてティルダは考えられないか。
神谷:①有島は、「カインの末裔」で羊蹄の風景、「生まれ出る悩み」で岩内の荒れる海の風景を描写している。ただし、実際に目にしたわけではないと思われるので、絵画から、或いはイメージとして、映像的再生で生き生きと表現している。
②有島の日記の中に、「僕を感動させるのは・・・・多分、死の囁きかもしれない」という一節がある。自殺願望は他にも見られる。実際の心中の時も躊躇していない。③純情無垢なおぬいさんのモデルとしてのティルダ説は初めて聞いたが、面白いかもしれない。
藤田:『星座』には様々な個性をもった人物が登場するが、私も恵迪寮で異なる個性のぶつかり合いを経験した。登場人物のモデルとして、例えば、園は鈴木限三(後の北大教授)と言われているが、有島自身の側面も持っていないか、或いは、人格者である宮部金吾であると考えられないか。
神谷:そう言われるとそんな気もしてきた。宮部はとても親しい先輩であった。皇太子の行啓に際して、佐藤昌介・宮部・有島の三人で豊平館に挨拶に赴いている。
有島は黒百合会を創設するなど学生達と緊密な付き合いをする教師であった。また、学生以外の若者とも感動的な出会いをしている。
藤田:有島は遠友夜学校の代表もしている。この学校は、新渡戸メアリー夫人の乳母から送金された金を基金にして、貧しい子ども達のために教育を行うために開いた学校で、50年間で約5000人が通った。校長は新渡戸、代表は実質的な運営者であった。北大の学生が先生として、全くのボランティア(むしろ持ち出しあり)で協力した。有島はこの学校の校歌も作詞している。

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  •  まだまだ興味は尽きないのですが、あいにく予定されていた時間を大幅に経過しました。残念ながら、ここで一区切りとして、最後に恵迪寮寮歌を歌うことになりました。
     参加者の中に、現役の寮生5名、同窓生8名(お二人を含む)がおり、有島武郎作詞「札幌農学校校歌 永遠の幸」、有島武郎作詞「遠友夜学校校歌」、明治45年寮歌「都ぞ弥生」を高らかに歌って、このイベントはお開きとなりました。

  • (恵迪寮同窓会北海道支部副幹事長 千原 治 昭和50年入寮)